暴かれた真光日本語版
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2005年09月26日(月) 崇教真光と考古学 その4(批判2)

崇教真光と考古学 その4(批判2)


[563]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
二、『縄文前期から米作り!』――中国のほうが古い
■世界の稲作文明史を書き換える 中国浙江省の上山遺跡(2005.1)
www.china-news.co.jp/culture/2005/01/cul05012401.htm
 (中国通信=東京)杭州22日発新華社電によると、浙江省文物考古研究所と浙江浦江博物館はこのほど、▽浦江県にある上山遺跡は中国でこれまで発見されたものとしては最も年代の古い新石器時代遺跡の一つである▽それは世界の稲作文明の歴史を書き換えるとともに、まったく新しい人類初期の定住生活様式を示している―と発表した。
 浙江省文物考古研究所は国家文物局の承認を受け、浙江浦江博物館と共同で、2001年と04年に上山遺跡の考古学発掘を行い、重要な発見をした。北京大学文博学院が新しい炭素14法で年代を測定したところ、上山遺跡から出土した炭素を含む大量の陶片は1万年前後の歴史があり、このことから中国でこれまで発見された中で年代の最も古い新石器時代遺跡の一つとされた。
 同研究所研究員で、上山遺跡考古学チーム・リーダーの蒋楽平氏は、次のように話した。炭素を含む陶片の表面から、大量の籾殻跡が発見され、こね土にも大量の籾殻が混ざっていた。陶片からサンプルをとって植物ケイ酸体分析に行ったところ、多くの陶片に稲葉片の運動細胞に由来する扇形ケイ酸体が含まれていた。陶片中の籾殻の形状を観察した結果、粒の長さは野生稲より短いが、幅は野生稲より広く、人間によって選別された初期の栽培稲であることが分かった。
 これまで発見された中で年代の最も古い稲作の遺物は長江中流と淮河上流一帯から出ているため、伝統的にはこれらの地帯が中国の稲作の起源とされていた。上山遺跡で1万年以上前の栽培稲の遺物が発見されたことで、長江下流の稲作の歴史が2000年遡るだけでなく、上山遺跡のある長江下流地区が世界の稲作農業の最も古い起源の一つであることも証明された。
 上山の考古学発掘では、比較的多数の打製石器のほか、チョッパー、スクレーパー、尖状器、小石器や石核石器などが出土した。こうした打製石器を中心に、打製、磨製石器が併存している現象は、原始的な狩猟、採集と原始農業との複合的経済方式に対応するもので、上山遺跡に旧石器から新石器への移行という原始的特徴が強く残されていることを示している。
 また上山遺跡は浙中盆地にあり、まわりは平坦で広々としている。中国でこれまで発見された1万年以上の初期新石器時代遺跡がたいてい洞穴や山地遺跡型であったのとはっきり違っており、これは人類初期の定住生活というまったく新しい選択の反映だという。

■岡山・6000年前の貝塚――縄文前期に本格稲作? 稲の化石大量出土
 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2.5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは千分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。
(2005年02月19日 読売新聞)


[564]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
ホ、『海を渡った縄文土器』――とんだガセネタ
■ガセビアだったバヌアツ縄文土器
www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/vanuatu.htm
 1996年8月14日読売新聞(夕刊)に「南太平洋に縄文土器...」という記事が載った。内容は、バヌアツ・ポートビラ(Port Vila, Vanuatu)で開催された西太平洋考古学会で8月5日、ハワイ・ビショップ・ミュージアムの篠遠喜彦氏ら(日米仏の研究者六人連名)が、バヌアツの縄文土器(表採資料14点)について研究発表したというもの。文様や胎土分析の結果、東北北部の縄文前期円筒下層c、d式そのものであると断定されたのだ。日本の縄文土器そのものが、何らかの原因で直接バヌアツに運ばれたものと結論づけられ、具体的には漂着が可能性として指摘された。なお1997・1998年には現地で発掘調査が行われたが、在地の後期マンガッシ式土器が1000点以上発見されたものの、縄文土器資料は得られなかった(文献)。
 2000年11月5日に旧石器捏造が発覚した後の、2001年2月14日読売新聞(大阪版・夕刊)に「日本からの寄贈物…」という記事が載った。真相は以下のようなものだった。
 1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館(Musse de l'Homme)の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた(氏は縄文土器に興味を持っていた…そんな氏に円筒下層式がプレゼントされたのは、いかにも縄文的な縄文土器だったからではなかろうか)。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。1972年になって、同館に所属していたジョゼ・ガランジェ氏が、バヌアツでの現地調査を元に博士論文を書いた。そこでバヌアツ・エファテ島(Efate)メレ平野のヤムイモ畑表採資料が報告された中に、縄文土器片が含まれていた。状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。ガランジェ氏の論文を送られた篠遠氏が、図版の中に縄文土器に酷似しているものがある事に気づき、その実物をハワイに送ってもらい、ちょうどハワイを訪れた芹沢長介氏らの鑑定で円筒下層式と確認された。さらに胎土分析や熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、まさに縄文人によって日本列島で作られた真正の縄文土器そのものである事が裏付けられた。
 元々一箇所だけの表採資料という事だったし、周辺地域に同種資料もなく、1997・1998年に行われた発掘調査でも追加資料が得られていない。日本から遠く離れたバヌアツに縄文土器が孤立して存在しているとしたら極めて異例だし、何か特異な事情があったと考えるしかなかった(その可能性が、point to pointでの漂着だ)。報告書がある以上、その土器資料の追求は必要な事だし、追跡研究にかけられた努力は多とすべきだ。結局、土器の寄贈から37年を経て、慶応大学関係者(寄贈者)の証言が公になり、真相が明かされた(話自体は1999年の某懇親会で出たものらしい)。アンリ・ロート氏の証言も聞いてみたい気がするが、すでに故人であり、そのすべはない。ちなみに土器表面に付着した土粒子は、バヌアツのものではなく、日本の土だったようだ。
 やや後味の悪い結末となったが、事はまだ終わらなかった。2003年のコンテンツにその一例がある[沖縄デジタルアーカイブ Wonder沖縄>海底遺跡>人類学は何を語っているか>]。また2003年刊行の『南海文明クルーズ−南太平洋は古代史の謎を秘める−』(平凡社 ISBN4-582-51229-1)に篠遠氏の詳細な反論が載っている(pp.266-285)。だが、ここで興味深い事実が記されている。即ち14点の縄文土器には、中・後期の土器片が1〜2点含まれていたというのだ。このような資料構成は、まさに人為的なコレクション由来である事を裏付けている(日本の複合遺跡での表採なら、時期が混じる事は不自然ではないが)。仮にだが、漂着事件が、前期・中期・後期にそれぞれ別個に起こり、それらが一箇所にまとまって表採されたという結論は受け入れがたいし、後期の漂着物(舟の搭載物)に前期と中期の土器が混じっていたとも考えられない(それに、大部分は前期なのだ)。土器が日本の土で作られた事は確認されており(誰にも異論はない)、ニューギニアのような文化の中継地を考える事も(この資料に関する限り)意味がない。土器表面に付着した土粒子も決定的な証拠となるだろう。それがバヌアツの土に数千年埋まっていたなら、まさにバヌアツの土の粒子がこびり付いていなければならない。


[565]崇教真光と考古学 05/10/06 14:16 9Hqd6qPk93
ヘ、『日来神堂を築いた縄文人』――実際は棚田?
■「縄文時代の黒又山ピラミッド」説への疑問点
ttp://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/ganseki1pira.html#55
 日本ピラミッドは縄文時代の構築物であるという話がよくあります。
 よくよく考えれば、ほとんどの日本ピラミッドでは特に縄文時代の遺物が見つかっている訳でもないし、古くから神聖視されている「岩石祭祀場」があるとは言っても、それが明らかなのはあくまでも古墳時代以降といったものばかりです(石巻山・三上山・三輪山など)。基本的に、日本ピラミッドを縄文時代の築成と主張するからには、あくまでも縄文時代の生活痕跡が明確に確認されなければダメでしょう。
 しかし、日本ピラミッドの中で1つだけ、縄文時代の遺物が見つかり、ピラミッド形に人工整形された可能性があると具体的に説明されている山があります。それが秋田県鹿角市にある黒又山です。
 鹿角市といえば、縄文時代の代表的な環状列石遺構「大湯環状列石」があることで有名です。しかし、その環状列石のすぐ近くに「日本ピラミッド」と呼ばれる山があることはあまり知られていません。
 それが、地元では昔から「クロマンタ」と呼ばれていた黒又山であり、麓からの比高は80m程です。山としては小丘と言っても良いほどの小山ですが、もしこれが人工物ながら巨大な構造物と言えます。
 平成3年、「黒又山は、環太平洋型ピラミッドに相当する可能性がある」という仮説の下に、環太平洋学会という組織が黒又山の調査を実施しました。
 環太平洋学会の調査目的は、この山が「階段型ピラミッド」になっているかどうかを確かめることでした。そこで、斜面部分が階段構造になっているかどうか、レーダーを使って地中の構造を探査する調査方法をとりました。
 結果、環太平洋学会が発表したのは、山麓から山頂部に向かって、7段から10段程の階段状構造が地中に見られるという驚くべき話でした。
 現在、山の地表面を見ても階段状構造になっている様子は分かりませんが、地表を覆う腐葉土の下には、そういう整形の痕跡が残っているのではないかということです。
 また、山の地表面からは多くの礫が発見されましたが、これはピラミッド築成時に覆われた一種の葺石ではないかと推測されています。これが本当ならば、白亜の階段状ピラミッドと言って差し支えないと思います。
 環太平洋学会によると、黒又山からは縄文時代後期の土器片が表面採集されていることと(註3)、周辺の神社の配置から(註4)、黒又山のピラミッド整形を縄文時代の頃と推定しています。この黒又山調査以後、全国各地で日本ピラミッドと呼ばれているものは、おおむね縄文時代の遺跡なのではないかという通念が広まっているようです。
 しかし、疑問に思うところがあります。
 7〜10段あるという階段状構造ですが、これが仮に本当にあったとしても、縄文時代に行なわれた整形とは限りません。縄文土器が山から出ていると言っても、採集された地点と地層が階段状構造のある場所と違うのですから、当てになりません。1つの場所で、複数の時期に渡って生活の痕跡が残る複合遺跡はよくあります。
 個人的には今の状況なら、昔の農民が山腹斜面に棚田を作った、というような可能性でもいけると思います。山の斜面に畑地を作るため地形整形を加えるのはよくある話ですしね。また、レーダ探査をしたのはごく一部の箇所ですから、この階段状整形が全山を巡って行なわれていたという保証は実はありません。たまたま昔の棚田の部分を探査してしまったのかもしれません。
 この疑問を解決するには、実際に階段状構造があるとされるポイントを発掘するほかないでしょう。そもそも本当に階段状構造面が検出されるのかという懐疑もハッキリしますし、その地層面から縄文時代の遺物が見つかれば、初めて階段状構造整形時期が縄文時代であるという推測が可能になると思います。
 黒又山は科学的調査のメスが入ったから縄文時代のピラミッドだという認識が広まっていますが、改めて考えてみると、黒又山が本当に階段状のピラミッド構造をしていたのか、していたとしてもそれが縄文土器の採集された時期と一緒なのかということは、いまだ証明されていないダークゾーンの段階と言えます。


[566]崇教真光と考古学 05/10/06 14:17 9Hqd6qPk93
 黒又山に限らず、日本ピラミッドの築成・使用年代を縄文時代にもっていく傾向が強いですが、それには恣意的なバイアスがかかっており、批判的に目を向けていく必要があるでしょう。
 また、そこにある「岩石祭祀遺構」も本当に「祭祀」に用いられていた「遺構」だったのか、仮にそうだったとしても、それは日本ピラミッド築成時期と同一の時期に使用されていたものなのか、ということを綿密に調べ上げていく必要があるでしょう。
【書込み者より】環太平洋学会が黒又山に関する調査報告書を複数出版しているが、青森県埋蔵文化財調査センターのdata baseには一切収録されていない。また同学会の機関誌が所蔵されている大学図書館は、国会図書館と学会長の勤務する同志社大学図書館だけである。他の研究者から評価されていない。
www.ao-maibun.jp

◇ 人類の起源はアジア!?――アフリカ説が優勢
国立科学博物館HP
www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html

●茂原信生氏研究業績 www.pri.kyoto-u.ac.jp/report/2001tenken/SHIGE.HTM
 ミャンマー中央部のポンダウン地域の中期始新世末期(約3700万年前)の地層で発掘調査をおこない,多数の霊長類化石を発見した。これらの霊長類は始新世に繁栄した化石原猿類と漸新世以降に進化した真猿類のちょうど中間的な形態を示しており,真猿類のアジア起源説を支持する証拠として注目されている。Pondaungia(Shigehara et al., in press),Amphipithecus(Takai et al., 2000b),Myanmarpithecus(Takai et al., 2001a),Bahinia(Takai et al., 2000b),そして未記載の2種類の霊長類(Takai et al., in prep.)を発見している。
 さらにこういったミャンマーの初期真猿類化石に基づいて初期真猿類の進化に関する複数の論文を発表した(高井ほか,1999;高井,1999;2000)。またポンダウンの霊長類化石の体重推定に関する論文(江木ほか,印刷中),ポンダウンの地質年代に関する論文(Tsubamoto et al., in press),ポンダウンの新種の奇蹄類化石に関する論文(Tsubamoto et al., 2000a, b)を共著論文として執筆した。

◇ ベトログラフ(岩刻文字)の発見――岩のひび割れ?
 ペトログラフを妄信する人達は、我国で漢字渡来以前からシュメール文字が使われ、岩石に書いていた、と言っています。岩石に書くのなら、石器・土器・鉄器などにも書いたはずですが、そのようなものは当時の遺跡・古墳から全く発見されていない。結局は岩のひび割れを文字だとごじつけているようです。


[567]崇教真光と考古学 05/10/06 14:19 9Hqd6qPk93
崇教真光中級研修テキストE版(2002年改訂)
P54

270〜250万年前 最古の石器エチオピア(ハダール)
200万年前 石器、猿人の石(アフリカオルドワイ遺跡)
180〜110万年前 アウストラロビテクスの礫器(東アフリカ)
160万年前 細石器(中国河北省)
120万年前 木の葉形石器(松江)
50万年前 出雲メノウ石器(島根)
50〜40万年前 石器(マレーシア、コタ・タンバ遺跡)
30万年前 石器(岩宿遺跡)
30万年前 水晶石器(山口)
20万年前 石器(岡山)
20万年前 核石器(インド)
50〜10万年前 原人使用石器(シリア)
約10万年前 尖頭器とスクレーバー(岩宿)
約10万年前 ハンドアックス(大分早水台)
約7〜5万年前 小形石器(栃木、星野)
5万年前 ナイフ形石器(京都)
5〜4万年前 旧人使用石器(シリア)
3〜1万2千年前 石器(石刃、掻器)(石川)
3万5千年前 磨製石斧(東京・下高井戸塚山遺跡)
2万6,000年前 ヤリ先(野尻湖)
2万5,000年前 焼礫(多摩ニュータウン)
2〜1万2,000年前 新人使用石器(フランス、マドレーヌ)

【解説】2001年以前のD版と比較して、160万年前 細石器(中国河北省)と3万5千年前 磨製石斧(東京・下高井戸塚山遺跡)が加えられた。120万年前の木の葉形石器はインチキである。


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