暴かれた真光日本語版
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[955]あーあ 04/07/14 0:33 rDwL4mp1D7X >>947
そうですね。 もし思想を語りたければ、思想を語るような方法をとればいいことです。
たとえば「思想」とは、その人が考えていること、思っていることです。 例1「ムー大陸があったように思うこと。(思うようにすること)」
「思想」や「思っていること」とは、その内容自体が、事実依存している (事実であるか否かにかかわる)わけではないので、当然真誤の対象には なりません。ですからもし、岡田教祖が思想だけを語っているのなら、 当然真誤を吟味される必要がないわけです。 しかし、教祖は、「ムー大陸があったように思っている」とか「−あって欲しい」 のような言語形式、つまり、思想や願望などを吐露しているわけではありません。 例2「ムー大陸はあった」と主張する教祖の態度は、明晰であり、 これは事実認識に基づいて言明していると言わざるをえません。 したがって、教祖の主張>>913 >>915 は、事実認識の問題として真誤の対象に なるわけです。あなたの言うとおり、これは思想とはいえません。
思想の背後に歴史観、歴史観の背後に思想、真光についてそういった問題 を吟味するのも興味深いと思います。
[985]あーあ 04/07/15 0:41 rDwL4mp1D7X >>965
>この「ザ」の他の掲示板を色々と見ていますと様々な方がいます。 >霊魂の実在など全く信じていなかった方が、何かをきっかけにして心霊現象を体験し、 >目に見えないが、確かに何か実在している事に気付き始めている方も多い様です。 >真光だとか、宗教だとか、一切関係ない人たちが。
われわれ人間はね、色や形を目という感覚器官(視覚)を介して感じ分けることができる。 熱い冷たい痛い柔らかいなどは、皮膚などの感覚器官(触覚)を介して感じ分けることができる。 味は、舌という感覚器官(味覚)を介して、匂いは鼻という感覚器官(臭覚)を介して、音は耳 という感覚器官(聴覚)を介して、それぞれ感じ分けることができるわけだ。 だけど、きみの言う「存在」は感じる(気づく)ことができないんだな。 なぜなら「存在」というのは、感覚器官が体験する対象ではなくて、「(あるものが)あるかないか」 という判断(思う)の対象に過ぎないからだよ。 つまり、きみの、「目に見えないが、確かに何か実在している事に気付く(感じる)」と言うのも、 感覚器官による体験とは言えないので、(かつて信じてようが信じてまいがに関係なく)たんなる 「霊がある(いる)」という思い込みである可能性が、十分に疑われる。
[986]あーあ 04/07/15 0:43 rDwL4mp1D7X >>981 統一の宗教観を求めることは今急務なのです、とはどういう意味ですかね。 そういう差し迫った事情には、れっきとした理由があると考えられます。 教えてください。
[1007]あーあ 04/07/16 1:33 rDwL4mp1D7X >>987
>同時に、宗教を馬鹿にしても良い、勧誘にくる人は「物売り」といっしょだ >などという誤解が、社会的に絶対上位であるはずの(西洋、中国では当たり >前)宗教観を下位に落としてしまったがための、連続性の喪失になった、と >とらえています。勿論それが総てだとは言いませんが。
宗教は人間の実存的要請にもとづいて表出したものだと考えています。 神という存在を措定して、倫理問題の解答をこの存在から得る、という方法が 考え出され、宗教が生まれたと見るからです。 しかし、胡散臭い宗教はつい余計なこともしゃべります。 時として語られる主張の内容が、世界や歴史の事実に関する判断であるとき、 その主張の内容は、われわれの世界や歴史を共有するあらゆる人間にとって無視 することは出来ないものになります。 歴然とした事実の公共性に触れられたとき、その胡散臭い宗教が輪をかけたように 胡散臭く振舞うので、社会の反応(馬鹿扱い)が決定付けられると思います。
[1008]あーあ 04/07/16 1:40 rDwL4mp1D7X >>989
>君は、先に私が書いた南方の土人のレベルのようだね。 >きみの知らない世界は、いくらでもあるのだよ。
人間の経験・知覚・観察といった領域の中で、きみの言う五官以外の 「存在を感じる」という方法や状況を、君自身がうまく説明できないので、 今度は「知らない世界はいくらでもある」とか、「自然界の見えない力」の ような言葉を援用して、この場を切り抜けようということですか。 残念ですが、同語反復に等しい抗弁になっているので、依然として、「存在を 感じる」は認識的方法としての価値はゼロです。 やはり、きみの示す「存在する何か」とか「心霊現象」は、われわれの経験 世界の中で、知覚の対象でなく、観察の対象でもなく、またどのような思想を もった人間でも経験を共有できるような、公共の対象ではなさそうです。
>それとも、世界中のあらゆる事を知っているとでも言うのかな。
とくにきみのようなひとは、「あらゆる事」が、知識か知識でないものかを明瞭に 区別しておく必要があると思います。 知識(経験や観察に基づくもの)か、知識でないもの(たとえば誰かの空想とか主観、 思い込み)をごっちゃにして「あらゆる事」とくくるのは、議論の障害になります。 もっとも、こういったごった煮はきみたちの傾向なのかもしれない。
>まぁ、五感の話をしたから、君に聞くが、心臓は何故動き続けるのかそれを説明できるかね。
五官の問題から、どうして「心臓は何故動き続ける」という問題が導出できるのかね。 心臓は動き続けることはあっても、心臓が感覚器官に置き換わることないと思います。
>また、五大宗教が何故起こったのか、君は、その理由と発祥起源を説明できるのかな。 >人間はどこから来て、どこへ行くのか説明できるのかね。
たとえば、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」といった、人間(わたし)の観察領域 では判断不能の問題に対して、断定的な態度をとる(説明する)のが宗教です。 説明する主体者は、宗教であって、人間(わたし)がそのことを説明できるわけがありません。
○崇教真光=人類救済を掲げる一大宗教でありまする−ファイナル− http://religion.log.thebbs.jp/1083529814.html
[28]かっぱ 04/05/04 12:14 uPJqwIqKmV7 http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/koshikoden.htm 古史古伝と神代文字 神代文字は江戸の国学者の偽造ですよ〜。 奈良時代の母音の数と違いますからね〜。 それから根拠のない話はもってこないでよね。
[47]ドアホ! 04/05/21 8:02 W8wc9ftp8aH ネットの世界ってのは理屈の世界だろ、口で説明できないことをもちだ して、極めて難しいなんてほざくんじゃない。 古史古伝はインチキだ!真の歴史学者ここに集え検証だ![e100] こういう学術的な意見もあるが?
→ http://history.log.thebbs.jp/1083570527.html
[213]孫悟空 04/07/30 0:11 iGSqGPppsjm 貴方は、事実と妄想を混同しているようですね。 真光初代教祖、光玉師のみ教えに「ムーとアトランティスの水爆戦争」があったと しているが、科学者の調査によれば琵琶湖が調査に最適で400万年前の地層迄、 ボーリングした結果、1万2万年前後には「放射性同位元素が増加」した形跡は無 く、核や水爆戦争無かったことが判明しています。
ですから、高山で、岡田光玉氏の肉声テープが流れ「ムーとアトランティスが水爆 戦争」をし、ムーが日本だ、という光玉氏の言葉は、真っ赤な嘘であることが判明 しています。
[217]カルトウオッチャー 04/07/31 10:36 YhYZxKppsD1 なぜ、フランスで創価学会はカルト指定を受けたか?
http://www.toride.org/study/185.htm
「最近、同様の事件に対し、二件の判決が下りた。その二件とも、 創価学会をカルトだと認定した。裁判で信者(学会員)は負けた。
「裁判官は子供に学会の呪文を唱えさせることは精神錯乱を引き起こ すので危険だと認め、子供を学会の修行から遠ざける判決を下した」
真光も、子供を10才で入信させる、額に、手かざしして祈言(呪文) を唱えると霊動現象が起きることがある、辞めると祟りがあると洗脳 し脅す行為をしているから。フランスのカルト指定も頷けます。
[226]きらら 04/08/14 12:26 6g9s46qwgrR だいたい読みました。大半の意見の集約として ○教義が20世紀の時点で崩壊している。 ○各国でカルト集団の指定を受けている。 ○手かざしの効果の無いことの言い訳を最初から考えている。 ○それでもなお、信者さんはたくさん存在する。 ということでしょうか。 ある信念を持っていれば、精神的に楽になる。だから何かの宗教が必要。 という意味では、一度信じた宗教ってなかなか捨てれないんでしょうね。
[234]bow 04/08/18 14:32 6QVr8Opi.ad >>231 本旨と違う事になってしまいますが、宜しければご返事下さい。
>気付かせて=築かせて 悟って=差取って
他にも「祈り=意+乗り」「幾許く=個々+抱く」などの例を良く見かけます。 此れらは「大和言葉=外来語(漢語)+大和言葉」とする構成の解釈になる 訳ですが、勿論言葉の成り立ちとしては語呂合わせに過ぎませんし、当然意 味としても妥当な物では有りません。
しかし日本では忌み言葉等も含め、こうした言葉の感化力に関する風習が根 強いですから、心持ちとして前段の語解がある事にやかましく正誤を問うつ もりは余り無いのですが、例えばこれが言葉の起源の問題として捉えられる なら少し話は違ってきます。
失礼ながら光玉師の主張の断片や竹内文献からの影響を想うに、恐らく教説 の根幹としては「日本(ムー)=宗国」:「日本語=総ての言語の起源」と して現れる解釈なのでしょう。 (バベルの塔の実体化解釈なんかも関係するのかもしれません。) 仮にそうであれば当然教えとしては"心持ち"には留まらず"(隠された)真 実" "語源説"として展開されているのだろうと思われます。
さて、私がお伺いしたいのは、これらが良いとか悪いとかではなく(半分以 上私の憶測ですが)信者さんが実際にどのようにこれ等を受容しているかで す。 具体的にはよねさんが「気付かせて=築かせて 悟って=差取って」と使われ 時、"心持ち"として現れる表現に留まるのか?それとも言葉の真実の姿だと する意図が有るのか? 仮に後者の場合、極端に言えば「辞書に書かれていることは嘘」だとか「現 状の学者の知恵ではこれが限界」とした反論が伴うのか?と言うことです。
尚、私は無神論者なので、拠って回答不可ならばそれで承知いたします。
[237]bow 04/08/18 16:36 6QVr8Opi.ad ご丁寧にありがとう御座います。さて・・・
竹内文献などに纏わる話を仮に此処では偏差史観と呼ばせていただくとして 、これ等は戦前皇国史観と相俟って神秘主義者の一部に根強く支持されて居 たようですから、後人や取り巻きの扱い云々以前に、其の環境や時勢からみ て光玉師自身が影響された表れと見た方が妥当だと思いますよ。
ですから >日本原語がどうのと言ってるのは 幹部や特級・上級 の組手の一部だけ でしょう
と、するのは真光の本質に関わる問題であって、内外ともにユーモアでは一 括りには出来ないでしょう。
但し、新・新興宗教の場合、大なり小なり時代の推移とともに始祖の発言が 陳腐化してゆく様は容易に推測され、また其れに関わる教団の保守的な態度 が世間との軋轢の遠因に成り得るとも思われますが、現実的には妥協点を見 出す事が(各種批判への)解消策の一つであると私は思います。
そうした上で、(私の勝手な解釈かもしれませんが)よねさんの姿勢は私と しては同調できる所もあるのですが、(236を含め、時に「祈り」を「意乗 り」と受け止める事自体は悪い事ではない) それにしても随分思い切って書かれましたね・・・
しかし、そうした教理的な正誤の問題を度外視しても、信者に取っては別次 元で共感する所がある訳でしょうから、よねさんが主眼に置かれているのは 寧ろそうした部分なんでしょうね。
[239]bow 04/08/18 19:38 6QVr8Opi.ad 端的な言い方をすれば、総ての根源を日本に置くと主張する宗派が、元一つ ・元還りを訴えた所でどの宗教も耳を傾けないと思いますよ。 (勿論、個人的には並行したり改宗される方が各宗から出る事は予測できま すが) 私には単に帰化を即すものにしか聞こえません。 しかしながら、実は寧ろ、よねさんが理想とされる姿は崇教と律する姿では なく、無宗派や無宗教に近いんじゃないでしょうか?
どうにも私には、其の辺りの矛盾を教団の運営や幹部の姿勢に仮託してしま って、よねさん自身が負担として背負い込んでしまって居るようにも伺えま す。
教えがすばらしければ、それなりにすばらしい結果になり。 混乱したものであれば混乱した結果があり。 破天荒なものであれば、それなりの結果がでるのではないですか? また、教えがすばらしくとも、曇りの深い人が幹部に選ばれるから、結果が 容易くないのだとしたら、その教化はそれまでの力と評価されると思います 。 「本来どちらでも良い事の筈のものをわざわざ言いきったりして」しまって いるのは祖師自身であり、教団の現況はその教えを幹部や先人が倣った結果 にあるのではないでしょうか? そうして其れは、関係者の一部に固執された事柄ではなく、先ほども述べま したが真光の本質に関わる問題のように思われます。
強烈な神秘体験や所謂奇跡を体験してしまった人が、宗教団体の実態と体験 の溝を埋めきれず自己問答する例は珍しくありません。 勝手な事ばかり書きますが、238なぞ拝見するに今述べた実態と体験が繋が りなく交錯しているように感じます。
[243]bow 04/08/20 22:57 olT3c7sy0/P >>240 単純に言葉尻だけを追うと "デマと認識されるならば其れを信じなければならない必要は無い" と しか言えない訳ですが、此処では(恐らく)「事はそう簡単に割り切れるものではない」と訴えら れているのでしょう。 「体験しなければ分かりません」と言う言葉を信者さんからよく聞くのですが、この言葉には元来 「手かざしを受けて神の実在を確信する」とした意味が込められていると私は思います。 そうして、此の言葉を他人に説明しようとする時、どうしても「効果を謳う」「現象を語る」結果 になるわけですが、実際の所、信者さんの言う体験とは、「手かざしを介して神に共感している」 若しくは「神に触れた瞬間を経験した」言いえぬ感覚的な出来事を指すのであって、其れは恐らく 音楽を聴いて感動するとかに近い事柄だと思います。 よねさんが、デマと認識した上で其れを信じようとされている事。デマを言ったであろう人を好き な事。などは、この言葉には代替できぬ「共感」に動機があるのではないかと私は思います。 つまり「理屈ではない」とするのは現象や効果を以って信じる以前に共感が存在しているのではな いかと言う事です。 私は再三申し上げる通りの無神論者ですが、この「共感」を否定するつもりはありません。 寧ろ尊重すべき事柄であろうと思っていますし、恐らく此の共感こそが純粋な信仰と呼べるもので はないかとも思っています。 でも、此れに尾びれが付く事にはやはり同意しかねるんですね。 例えば掌から何かが放出されているとして、其れを何故「神の光」と思うかと言えば、大方は主催 側からそのように言われたからが実の所であり。 仮に「生命エネルギー」だと言われればそのように受け入れるのであって、必ずしも個々人が「掌 から光が出ている事」又其れが「神」に由来している事を一々確認した結果に基づく訳ではないで しょう。 (それらが定義された後に"見えた"と主張する人ならば私も知っていますが) つまり「神の光」とする表現は、「共感」を表現する一手段に過ぎず、人間の勝手な連想による名 詞化とも言い変える事が出来るように思われます。 人はどうしても物事に名前をつけなくちゃ具合が悪いので、此処までは仕方が無いと言えば仕方の 無い話ですが、此れが"高次元でどうの"となると疑似科学です。 今、非常に短絡的な表現になってしまう事をお詫びしますが、私たちが宗教として渾然と捕らえて いる中身には、共感→連想→(証明)→疑似科学等とした推移を見ることが出来ると思われます。 此れに対して私は「共感意外は人間の想像の産物である」とか「其の共感すら自己が作り上げた願 望に過ぎないのか疑うべきだ(さもなくば神を独善の道具にしかねない)」とも考えて居るわけで すが、其れは私の考え(方向性)ですから一先ず置くとして・・・ どうにも、よねさんの主張される所を拝見するに、先に掲げた連想を連想と知っていながら、疑似 科学を疑似科学と理解された上で一番最初の共感の範囲をそれらにまで広げよとされている様に伺 えるのです。 言い換えれば区別を自ら捨て、盲信である事を知りながら、自分を盲信させようとしている様にも 感じます。 此れは身贔屓どころか、秩序に関わる大変危険な事の様に私には思えるのです。 しかし、又は単純に「自分は恩義には逆らえない」と仰るならば、其れは其れで(宗教や信仰の話 とは別として)分かる様な気もしますが、
249 250〜255
260、265、266、276、277、279、302
[301]まー 04/08/27 22:38 hgEL/.ppsHU まー、この教団の成り立ち、パクリ教義、教祖の経歴詐欺等 教団の根幹の問題をハッキリさせ >>300 のインチキ性を晴らさない限り、いくら、古神道や沖縄海底遺跡モドキや神代文字を議論 しても、無意味なだけでなく机上の空論にすぎない。
つまり、インチキで成り立った似非宗教なのに、それ以外の部分で、古神道を証明しても意味をな さないからだ。
[306]1365 04/08/28 22:37 hgEL/.ppsue 21世紀との境目に起きる大天変地異はどうなったんでしょうね?
大阪はグランドビルの最上階まで水が来て、水没する話でしたが・・。今となっては 「天変地異は少しずつ来るという意味だったのよね」などと組み手は言っています。 よくそんな風に自分を騙せるなと思いますよ。そんなこと、教団は言っていませんでした。 教団の「売り」であり、断言していた予言がはずれたら「実はこういう意味だった」と 掌を返すような指導を教団はしているのでしょうか。
組み手もよくそこまでうまく騙されるものです。いえ、組み手は自分自信を騙している のです。「実はこうだったんだよね」と信じようとしているのです。つじつまが合わな くても、「真光は正しい」という信念にはどのような疑念も許さないのです。 でも今更、本当にそう思えるのでしょうかねー?
真光教団自体が、集団霊障です。光が出るから、奇跡が起きるから・・だからといって、 もはやこれが神である証とは言えないでしょう。神系のものであっても、どういうものか は怪しいです。
[309]そうかな? 04/08/28 23:58 hgEL/.ppsuI 本質的に宗教は病気そのものを治すことはできません。病人が信仰を持つことで 大なり小なりに良好を観察できたとしても、それは宗教の本質が病に働いたわけ ではありません。
それこそ宗教の迷信であり、宗教の馬鹿馬鹿しい側面です。 精神と肉体が"単独で存在することなく"相互依存の関係に基づいて「人間」という もの成立させているのであれば、心の変化が生理的に作用したとしてもなんら不思 議ではありません、また逆もありうるということです。
たとえ信仰を持たない人間でも当然起こりうる現象だと推察します。
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日記作者
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