暴かれた真光日本語版
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2004年11月12日(金) 1996仏議会とセクト(1)-(5)

456 1996仏議会とセクト(1) 2004/10/08 21:47

『諸君』1996年5月号P146-154
『仏議会が認めた創○学会の危険性』――民主主義を逆手にとるカルト集団に対しては暴力団、麻薬取締り同様の強硬手段を講じろ
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広岡裕児(ひろおか・ゆうじ)ジャーナリスト
1954年神奈川県生まれ。大阪外語大フランス語学科卒後、パリ第三大学に学ぶ。76年よりパリ在住。新宗教、経済問題から映像文化に至る幅広い分野で執筆を行う。
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 「魔女狩りを行おうとしたり『新宗教』と呼ばれているものを原則として断罪しようという考え方などとんでもない! だれでも自分が良いと思うことを信じるのは自由である。ただし、その隣人を害さないという唯一の条件のもとに。
我々の注意を引いたのはグループの儀式行事ではない、他人の自由と法律を尊重しないことなのだ」――。
 2月8日、日本の衆識院にあたるフランス国民議会で「セクト理象の研究と必要な場合には現行法令の改正の提案案をする」調査委員会の委員長ジュスト議員は、報告書説明の冒頭にあたってこう断言した。この報告書とは、与野党あわせて30名の議員からなる同委員会が6か月間の調査、審議の末120ページあまりにまとめた『フランスのセクト』である。
 セクト(本来オ○ム事件以来御馴染みになった「カルト」と同じくある教団の一派、異端、邪教といった意味だったが、現在ではマインド・コントロールをする危険な集団全体を指す)現象に対してフランスでは、日本よりもはるかに毅然とした態度をとっている。
「ヨーロッパには宗教の伝統があるから」とか「キリスト教という基準があるから」という声が聞こえてきそうだが、現実はまったく逆である。セクト問題は教義や儀式行事などの宗教上の問題ではないと認識しているからなのである。<信徒が少数である事、風変わりである事等を、セクトと位置付ける基準には入れなかった。現在ある大宗教の多くも、その発足当時にはしばしば会員の少ないセクトにすぎなかったし、現在では社会で公認されている儀式も、その当時では反対されたり、留保されたりしたものだ>と同委員会の報告書はいう。
 日本では宗教法人法改正をめぐって、参考人として国会に招致された宗教団体の代表や学者の一部は、宗教団体の活動に政府が枠をはめることになるとして反対意見を述べた。しかし戦後GHQ主導で制定された現行の宗教法人法はもともと教義や儀式行事に規制を加える目的のものではないのだから、会計の透明化や政治との関わりといった「俗世間」との関係を見直すのが限度だ。今後第二次改正案が実行されたとしても、憲法に規定された信教の自由とのかねあいから、反社会的な破壊活動を密かに準備している団体があったとしても、予防的対策は取れないのが実情だろう。オ○ムは犯罪が明るみに出たからこそ破防法の適用が可能になったが、事前の段階では、修行だとかお布施などといっているので、これを取り締まろうとすると、形の上では、教義や儀式行事への弾圧、になってしまい、民主国家なればこそ強い対策は取れないのである。
 今日セクトが、社会学者や宗教学者に自分達が宗教団体であると証明させようとするのは民主主義の大原則を隠れ蓑にするためである。報告書がいうように信教の自由、個人の尊重をふりかざしながら、<セクトは現社会の進歩が多くの現代人を陥れた混乱に付け込み、あたかも現代人が求めている答をもたらしたかのような幻想を与える魅力のある見せ掛けの精神性を謳った言説で現代人を凌辱し、繁栄を謳歌している>のである。


457 1996仏議会とセクト(2) 2004/10/08 21:48

■ 宗教の皮をかぶった有害団体
 今回の報告書はこうした、ジレンマに出口を与えたといえよう。実は、このような国会報告書が出たのは、今回が初めてではなく、11年前にヴィヴィァン議員を中心とした報告書が出ている。だが、ちょうど、オ○ム事件前の日本のようなもので、統一教会などの事件は起こっていたもののまだ社会全体の危機感は薄かったため、全面的なコンセンサスを得るには至らなかった。
 しかし、93年にアメリカのテキサス州ウェイコで集団自殺したブランチ・ダビディアンの事件、94年にスイスと力ナダで同じく集団自殺を遂げた太陽寺院の事件、そして95年のオ○ム真理教事件と立続けにセクトがマスコミを賑わした。とくにオ○ム真理教事件は決定的だった。どんなテロリストも実行したことのない無差別ガス攻撃がセクトによって敢行されたのだから。信者達個人の枠を越えてセクトの危険性は、祉会全体を脅かすようになったのである。
 日本では宗教法人法改正を焦点とする参議院選挙たけなわだった昨年6月29日、国民議会は調査委員会の設置を満場一致で採択した。そして12月22日、172の団体を実名でリストアップした報告書が提出された。アルプスの麓で太陽寺院信者16人の死体が発見されたのはその翌日のことである。冒頭の発言のあった2月8日の本会議報告討論では、力トリックシンパから共産党まで全党が報告書に賛同演説、政府も善処を約束した。
 今同の報告書は、党派を越えたフランス政府のセク卜問題に取り組む姿勢の公式見解といっても良い。そのセクトに対する定義は極めて明確である。調査中に聴聞した人物の証言という形を借りて、次のように述べる。
 <『精神的な不安定化を狙った操作により、会員から無条件の忠誠、批判精神の低下、一般杜会の価値観(習慣的、科学的、市民的、教育的)との断絶を得ようとする集団であり、個人の自由、健康、教育、民主制度にとって危険をもたらす。この集団は、哲理や宗教の仮面を被り、その裏に権カ、支配力、信者の利用という目的を隠している』>(太字原文のまま)
 セクト問題とは宗教団体に関する問題ではなくて、宗教の皮をかぶった有害団体の一問題であることが見事に喝破されている。

■ 犯罪的マインド・コントロール
 実は、これまでフランスにおけるセクトについての対策は市民団体が担ってきた。1970年代に入って、統一教会やサイエントロジー、神の子供達(現・愛の家族)などに対して訴訟が続き、入信者の家族を中心に・宗教色のないCCMM<マインド・コントロール対策資料教育活動センター>やADFI(家族と個人を守る会)などの被害者を守る会が設立された。
 会のメンバーは無神論者から神父・修道女に至るまで幅広く、「キリスト教も魔女狩りなどセクト的行為をした」と公言し、また現在のロシアのようなロシア正教以外は邪教というような不寛容な立場とも一線を画している。
 彼らはセクトは宗教問題ではないという主張を根気強く続けた。
 これらの団体は、セクトと判断するのに被害の事実から出発する。つまり、家族など関係者から事件や心配事が通報され、確認され、問題グループの対応と実績を見てはじめてセクトと判定するのである。


458 1996仏議会とセクト(3) 2004/10/08 21:49

 判断材料として、教義は一切考慮しない。それこそイワシの頭を信じようが、UFOを信じようが、被害さえ及ぼさなければ良いのである。また、組織の大小も関係ない。その観点から出発して、セクトが起こす現象を深く調べてみると、すべてが1つの点に集約されることがわかった。マインド・コントロールである。
 なお、マインド・コントロールという言葉は一般に曖昧に使用されており、それを逆手にとって、「会杜や学校にだってマインド・コントロールはある」といった言い方でセクトの正当化やセクト対策への批判に使われたりするが、本来は、洗脳と同じく明らかな精神的障害を生む現象のことをいう。恐怖感にさいなまれるとか、教祖にいわれるがままにお布施するとか、突然共同体に入って家庭や職場との連絡も取らない等は、いわば病気の症状のようなものである。そして戦後、精神医学の発達で、洗脳、マインド・コントロールという科学的事実が発見されたが、それがこれらの症状の源であるとわかったのである。同時に、マインド・コントロールをやめないグループというものの性質もはっきりと見えてきた。これを「セクト」と呼んだのである。
 いわば、暴力団の定義と同じ考え方であるといえよう。まず不法行為ありきで、あるグループが集団的または常習的に暴力的不法行為等を行う潜在的可能性があるから暴力団というのであって、仁侠映画にかぶれてヤクザやチンピラを賛美してやまないグループだからといって暴力団だと認定するわけではない。またあるグループが激昂のあまり暴力を振るったとしてもその後反省して暴力をやめれば、それは暴力団ではない。
 当然の帰結として、セクトの定義には宗教を標榜しているかどうかすら関係ない。精神分析や催眠術、自然医学、マルチ商法、自已啓発講座など非宗教、反宗教であってもセクトといえる。
 今日、この考え方は西欧諸国のセクト認識の主流となりつつあり、英語でも「カルトは宗教を口実とするセクトである」という用法が一般化してきている(本稿でもこの意味で使用している)。
 とはいえ、市艮団体がいくらセクトに警鐘を鳴らそうとしても、そこには自ずから限界がある。今回の報告書はようやく政府が本腰を入れたものと歓迎された。なによりもまず、市民団体の考えを受けてセクト判断の明確な基準を示したことは、今後の取り組みの上でも大きな意義を持つだろう。

■ 社会を蝕む「病原菌」
 委員会はセクト判断の具体的基準として、内務省情報局の基準を採用した。内務省情報局は、日本でいえば警察の公安担当で、中にセクトを専門に担当する部署がある。この部署もセクト問題と宗教を分離する認識に立っており、組織的にも宗教団体を管轄する宗務部とは全く別である。
 以下がセクトかどうかを判断する10の基準である。
「1」精神の不安定化
 <説得や怪しげな操作、そのほか具体的な手段でもって支配下にいれるために人を動揺させるという事実>で<適用された人々の心理現象に、例えば絶望や呪い、分裂病的症状、あるいは極度の依存状態など重大な結果を及ぼすこともありうる>
「2」法外な金銭的要求
 <自由意志による献金というのもたいていあてにならない。セクトに対する寄付者に従属性が余りに強いので、自由裁量ということの普遍性に疑問を持たざるを得ない>
「3」住みなれた生活環境からの断絶
 マインド・コントロールによって精神的従属状態に置かれ通常の生活環境から切り離されてしまうことをいう。オ○ムの「出家」のような状態は勿論だが、表面的には普通の家庭的、社会的生活を送っていても、「信仰」に疑問をなげかけたり、信者の批判的精神を目覚めさせたりして脱会させてしまう可能性のある人物を悪魔だと思いこまされて、接触を避けている状態なども含まれる。
「4」肉体的損傷
 劣悪な待遇、打撃と傷害、監禁、危険な状態にいる人の無救護や不法医療行為、性的攻撃、自殺、他殺など。不法医療行為は、既成の医療を否定して代替手段とするのか通常の医療の補完とするのかがボーダーラインになる。オ○ム真理教のような麻薬はいうまでもなく、サイエントロジーのビタミン大量投与もこれに当たる。


459 1996仏議会とセクト(4) 2004/10/08 21:51

「5」子供の囲い込み
 原語 embrigadement は「旅団編成、隊(班)編成」という意味で、ただ単に子供を集めるのではなく、軍隊のように外界から遮断して信者を養成することをいう。「愛の家族」などその典型だ。日本にも児童福祉法などがあるが、「宗教」という口実で例外にしてはならないということでもある。
「6」反社会的な説教
 信者に向かって既存の法偉や道徳は悪であり、唯一セクトの教えだけが遵守するに値すると説明することが多い>
「7」公秩序の攪乱(かくらん)
 「6」、「7」については、「日本臣民ハ安寧秋序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由を有ス」という大日本帝国憲法の条文をたてに思想弾圧された歴史のある日本人としては、誤解されやすいところなので、後で詳しく述べたいと思う。
「8」裁判沙汰の多さ
 いわば「問題のあるグループ」であるというパロメーターある。また、名誉毀損裁判を繰り返すことによって言論弾圧を試みるセクトも多い。
「9」通常の経済回路からの逸脱
 不法労働や詐欺、脱税の類。
 普通の会社が、従業員をタコ部屋に住まわせて重労働させれば、たとえ本人が「同意」していても労働基準法などに引っ掛かる。百円の歯ブラシを百万円で売れば詐欺になる。宗教団体だからといって、奉仕活動であるとか礼拝のための道具だという名目でそれが許されるとしたら、それは思想信条による優遇であり、法の下の平等の原則に違反する。
「10」公権カヘの浸透の試み
 これはもう日本の状況を見れば説明不要だろう。

■ 徹底した政教分離のもとで
 以上であるが、被害者を守る会のものとかなり共通している。なお、このうちの1つに抵触するからといってセクトと即断されるわけではない。とはいえ、実質上セクトはマインド・コントロール集団であり、基準はマインド・コントロールに密接に関連しているから必ず複数の要件にあてはまってしまう。とくに基準の「1」から「5」は、まさにマインド・コントロールというヴィールスがもたらす危険な症状に他ならない。
 逆に「6」から「10」は日本の宗教法人法の議論でも扱われた宗教団体と、「俗世間」の関係である。この問題は実は、フランスでは1905年の政教分離法で解決済みである。
 フランスには人権宣言を価値観、道徳の源泉とする非宗教(ライシテ)の市民社会とカトリックに価値観、道徳の源泉を持つ宗教社会が並立している。簡単にいえば、フランス革命以降の1世紀はこの両者のつばぜりあいだった。そして、今世紀の初めに最終的に決着がつき両者の間に国(市民社会)は、宗教を尊重するが公認しない、宗教は市民社会に立ち入らないというクールな関係が生まれた。
 1901年に、アソシアシオンという非営利団体法人の制度が制定された。日本の財団や社団法人のような大きさによる制限はなかったが、宗教を目的としてはいけなかった。このときに、これ以前からあった修道会(コングレガシオン)は、国務院(行政裁判の最高裁判所)の認可を経て特例として法人になることが規定された。

(注 ○付き数字を「」付きに変更)


460 1996仏議会とセクト(5) 2004/10/08 21:52

 ついで、1905年に政教分離法ができた。これによって、曖昧だった財産を市民社会側と宗教側に分離し、市民社会側に属する公立学校での宗教教育や教会以外の場所での宗教的象徴の掲示なども禁止された。
 かわりに、1901年法の特例として宗教を唯一の目的とするアソシアシオン・キュルチュエル(宗教協会)が認可された。
 公(public)は市民祉会に属するから、宗教団体「(宗務協会と修道会)は免税特典などのある公益団体にはなれない。通常宗教的行為を行う場所で政治集会を行ってはいけない。同じく宗教的行為を行う場所での演説や朗読、文書の配布、張り紙などによって公的な役務を担う市民を公然と侮辱または中傷したり法律の執行や公権力の法的行為への抵抗を直接挑発してもいけない。
 ただしその代わり、1901年法で認められた非営利団体としての唯一の集金方法は会費だけだったのが、宗教団体は直接儀式行事にかかる経費とその場所の維持のための経費を信者に負担させることができるようになった。
 財務面では、収支報告書と財産目録を毎年作成せねばならない。これは税務当局の監査の対象になり、控除の対象になる経費以外に使われていると認められる場合には、適常の税率で課税される。日本でいうお布施に当たる遺書による寄贈や生前贈与を受ける際相続税や贈与税の免除を得るには、別個に500万フラン(1干万円)以下は県知事(任命による国の代表)、500万フラン以上は、国務院の承認を受けなければならない。この場合でも宗務以外に使用されたと認められる部分には通常の法人税がかかる。
 修道会も同じである。ただ、宗務協会と比べて税の減免特典が幅広いので、会計報告義務が強化されている。ただ、前にも述べたとおり、設立にあたって国務院の認可を受けなければいけない。なお現在、キリスト教会以外の宗教を中心に、修道会の新規設立も認められているが、国務院は認可の決定に当たって内務省宗務部の意見に従い、その意見構築には内務省惰報局の情報が大きく左有する。
 ちなみに、個人の信教の自由、結社の自由の建前から法人格がいらなければ任意のグループで宗教行為を行っても構わない。文化協会など非宗教的な1901年法の団体を作ることも可能である。ただしこの場合、会費以外の収入はすべて営利収入と見做され通常課税される。

■ 創○学会はなぜ「セクト」か
 さて、説明が長くなったが、1905年法の第1条でも信教の自由は、「公共の秋序に反さない限り」と規定されている。そもそも、近代の信教の自由の根拠になっている1789年人権宣言第10条でも、その表明が法律によって定められる公の秩序を乱さない限り」と規定されているのである。おなじく、人権宣言第4条は「自由とは、他人を害すること以外のすべてを行うことである」と明言している。
 日本でも個人の権利について、憲法13条に同様の項目がある。だが宗教についてはこんな当たり前の原則が忘れ去られ、宗教法人の治外法権が生み出されている。
 なお、ここでいう公の概念は、現代では人権宣言の時代から1歩進んで、ファシズム、全体主義との戦いで獲得したものである。これを手放したくない、という気持ちは、セクト対策を促す原勤力の一つになっている。


日記作者