暴かれた真光日本語版
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2004年10月23日(土) 朝日VS毎日

朝日VS毎日


【真光系教団】被害者の会
http://religion.log.thebbs.jp/1140404341.html


[61]朝日 vs 毎日 06/04/21 19:41 SqCKfcIwpz
〔二十世紀の千人 第8巻〕朝日新聞社1995 P246-249
おかだかうたま
岡田光玉(本名・良一) 宗教家(真光教団教え主)
1901年2月27日〜1974年6月23日
(明治34年)   (昭和49年)

■巣立ち、立ち上がり、広がる「真光」
 手かざしという言葉は、多くの人に知られるようになった。もっとも、手かざしをする教団は数多くあって、それぞれ呼び方や、活動内容は少しずつ異なる。その中で、手かざしを「真光の業」と呼ぶのは、一般に真光と呼ばれている教団である。正確には世界真光文明教団と崇教真光が二教団になる。後継者争いがもつれ、崇教真光が別に一派を作ったという関係だが、教勢は崇教真光の方が強い。だが、教え主と崇める人物は同一であり、教義もほとんど同じだから、一般の人が区別をつけるのは無理と言っていいだろう。この両教団から教え主と位置づけられているのが岡田光玉である。
 光玉は本名は良一。東京の青山で岡田稲三郎・登美夫妻の長男として生まれた。長男だが、末っ子であり、しかも上に七人の姉がいた。母が女ばかり生んだので、出雲大社に願をかけて生まれたという。母はたった一人のこの息子を溺愛し、病気にならぬようにと、幼い彼にいろいろな薬を呑ませ、ために慢性胃腸病の症状が出たくらいであった。しかし、本来元気で、少年時代は腕白坊主へと変身していった。父は軍人で退役後繊維会社を経営していたが、16歳のとき死去した。その少し前、父は中学生だった彼に、士官学校に行くように言い渡したので、それに従った。
 1922(大正11)年に士官学校を卒業すると、近衛歩兵第一連隊に配属となる。皇居の守護が役割であったので、天皇崇拝の篤かった彼は、誇りをもってこの任務についた。翌23年に首都圏を襲った関東大震災では、東京被服廠跡の敷地の死体を片付けねばならなかった。これは彼に大きな衝撃を与えた。肉眼では見えない世界の動きがわれわれを支配していることを考えるようになる。さらに、部下が失った銃剣のありかを、通称「並木の坊さん」と呼ばれた僧侶が霊視によって見つけたというような当時の体験も、そうした世界への関心を強めた。宗教心の目覚めへの伏線と言えよう。
 陸軍歩兵学校教官を経て、日中戦争の勃発した37(昭和12)年に、大本営第一鉄道輸送司令部課長として、中国各地の輸送作戦の責任者となる。杭州に渡った彼は病を得て内地へ帰される。翌38年に御前馬術大会で、馬もろとも転倒し脊椎を骨折する。三ヵ月で一応回復したが、後遺症が残った。41年に、フランス領インドシナ戦線に赴いたが、現地で脊椎カリエスが再発したのである。帰国し東京で入院すると、医師からは、退院して三年の命と宣告された。絶望の中に、医学のあり方に疑問をもち、薬をすべて捨てた。自分を作ったのは創造神であると思い至り、その神に祈るという方法を選んだ。こうして病気が全快したことで、霊界に関する彼の信念はいっそう強いものとなった。
 病と戦うかたわら、父の繊維会社を飛行機会社に変えて順調に事業を伸ばしていたが、45年の空襲で工場が全焼し、莫大な借金を抱えることとなる。しかし無一文になって、初めて物質の無力さを思い知る。それまでの唯物的な考え方がもろくも崩れ去る。こうした変化に世界救世教の影響は見逃せない。
 世界救世教を知ったのは、疎開先の山梨県大月市であったとされている。戦後、埼玉県にあった同教の和光布教所の所長になっている。薬毒論や浄霊は世界救世教の中心的教え、実践である。彼の教えのあちこちに、世界救世教、さらにこれに先行する大本の影響がうかがえる。学問は我苦悶、ジングルベルは神来電鈴などの語呂合わせも、まさにこの系譜である。
 53年に多田建設会社の取締役に、その後、光開発株式会社を設立して社長に就任する。順調な日々を送っていた人物が、どうして宗教家に転身したのか。それは啓示によってであると説明されている。


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 59(昭和34)年の2月、ちょうど58歳の誕生日の早朝、最初の啓示を受ける。「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。厳しき世となるべし」というのが、その内容であったという。この日が誕生日というだけでなく、誕生年が明治34年で、昭和34年と数字が符合することに、彼は不思議な思いをもった。その後、彼はたぴたび啓示を受けたとされ、それらのうち52項目が「御聖言」として公開されているが、「古神道」信仰に関する知識がないと荒唐無稽に思えてしまうだろう。この年、彼は妻と離婚し、井上甲子を養女として入籍した。この甲子が彼の死後、崇教真光を設立する岡田恵珠(聖珠)である。同年8月、東京・神田須田町にL・H・陽光子友之会が設立される。Lはラッキー、Hはヘルスの頭文字である。発会式に集まったのは33人。当時、彼は大先生と呼ばれていた。
 翌年立川支部、続いて八王子支部ができ、組織が膨らんでいく。彼の表現を借りれば、須田町で組織が「巣立ち」、立川で「立ち上がり」、八王子で「四方八方に広がった」というわけである。設立まもない同会のメンバーになったのが、光玉の死後世界真光文明教団の二代教え主となった関口栄であり、当時は「超古代史」に関心の深い実業家であった。光玉に惹かれ、その運動を経済的に支援した。
 信者が急に増え、また社会からも注目を浴び始めるのは、62(昭和37)年の元旦、本年は「火の洗礼」の第一年であるという神示を発表してからである。この年には機関紙『真光』を発刊し、翌年には東京の田園調布を本部として世界真光文明教団と改称する。60年代後半から70年代初めにかけ、彼はきわめて精力的に各地を巡教し、とくに若者たちに語りかけた。また、最晩年の73年には、ヨーロッパに巡教したり、ときのローマ教皇パウロ六世と会見するなど、国際的な活動もてがけた。
 彼が使命としていたのは、世界の五大宗教、すなわち、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教を総合帰一する大元の教えを説く役と、世の立て直しの役である。これまでの宗教には神の仕組みが十分人類には知らされてこず、五大宗教に伝えられてきたのは、その片鱗のみというのである。しかし今は、神界、幽界、現界のすべてに大転換期が来ており、下手をすると人類共滅の危機があるので、ここに神は神界の秘儀を人類に明らかにするようになった。彼は、「魁のメシア」であり、次にやって来る霊主文明に生きる「種人」を育てねばならないというわけである。日本的終末思想とでも言うべき教えを携えた彼は、奇しくもオカルト・ブーム元年ともされる74年にこの世を去った。彼は、自分の父方の先祖は織田信長であり、母方の先祖は徳川家康であると語っていた。信長を天才的な戦術家と表現しつつ、自分は信長の回心した姿だとも述べた。なんとも興味深いアイデンティティーである。〔井上順孝〕
【解説】
 井上順孝氏は國學院大學教授である。
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/book/pb-1000.htm
 本書は各地の公立図書館で閲覧できる。1959年の出来事については、関口氏が訴訟相手の戸籍を弁護士職権で調べ、そのcopyを井上順孝氏に見せたのだろう。教団後継者決定に関する重要資料である。


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毎日グラフ 84.11.11 P53

救い主の生涯
 岡田光玉・救い主は、明治34年2月27日、陸軍少将主計総監だった父・稲三郎と母・登美の長男として、東京・青山に生まれた。本名・良一。祖父は紀州藩の武士で、藩主に進講する学者(侍講)でもあった。
 少年期は、外交官か医者を志したが、父の命令で陸軍士官学校に入学(大正9年)。二年後、近衛師団歩兵一連隊の旗手を命ぜられたのを皮切りに、陸軍歩兵学校教官、大本営第一鉄道輸送司令部長などを歴任。昭和16年には、仏印軍司令部鉄道責任者となっていたが、三年前の馬術大会の障害飛越で馬と共に倒れた際の後遺症(胸椎骨折)でカリエスとなり、「余命三年」と宣告される。このとき、医者も薬も捨ててただ神に祈る生活に入ったのが、正法信仰への開眼の契機となった。
 中佐で退役後、陸軍の航空機政策会社をはじめ、製塩、炭鉱、材木など戦時会社を四社興したが、終戦直前の空襲ですべてを失ってしまう。しかし「三年」のはずの生命が、すでに五年も生きのぴ、腐るはずの骨が蘇生していたことに気づいて、神仏への感謝と祈りに生き、開発会社を経営して借金を返済し終えた34年から、救世の人生が始まった。
 その年の2月27日未明、高熱を発して夢うつつの状態になったとき、突然の神示を受け、「崇盟五道」(キリスト教、仏教など五大宗教を統合帰一する大元の教え役)と「與崇賀従道」(神の地上代行者)の”み役”を与えられたという。
 一ヵ月後、教団の前身である「L・H・陽光子友乃会」を東京・神田須田町で創立。LとHは、ラツキー(幸運)とヘルス(健康)の意味だった。当初の神組み手は33人、自転車で布教にまわる日々で教勢発展は遅々としていたが、37年元旦「火の洗礼」の第一年にあたるという神示を発表してからは一変。翌年11月には、宗教法人「世界真光文明教団」を設立、以後パリ小道場(47年)をはじめ海外国に教勢が及んで、神組み手も20万人、30万人と急増した。ローマ教皇らと並ぶセント・テニス・ザンテ勲章の叙勲(47年)、パウロ六世との会見(48年)なと世界的な宗教者の地歩を固めた。
 岡田恵珠・二代教え主は、救い主の令嬢。神示にもとづいて、祖師の“み役”のすべてを受け継ぎ、現界において、さらに大きく実践する使命にあたっている。飛騨高山に世界総本山建立―の神示を発表したときから、教団名を「崇教真光」とし一層発展させ、予定とおり建立を果たすなどめざましい活躍ぶりである。崇教真光の教勢は、9月現在、51ヵ国80民族40万人を記録している

【批判】朝日と毎日、どちらの文章を信用するかは、各自の判断にまかせる。最近、崇教真光は初期研修テキストの巻末に新聞記事の転載をしているが、朝日の記事は全く無い。岡田恵珠氏は小山孝生・村上正邦の逮捕後、公式謝罪を一切しないような人物だから、経歴をごまかすのも全く平気であろう。
 源伸君は、次に書くように大学の先生の書く文献は信頼性が高いとしている。岡田晃弥氏が『神道考古学』を学んだ大学の『神道文化学』の教授の書いた文献なら当然信頼できるわけだ。(今はなつかし源伸君のネットデビュー作である)


日記作者