暴かれた真光日本語版
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2004年10月13日(水) 「新宗教の終末予言」

「新宗教の終末予言」


崇教真光=人類救済を掲げる一大宗教でありまする−ファイナル−
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[751]-[757]新宗教の終末予言
『大法輪』1996年8月号(大法輪閣)200-207頁
「新宗教の終末予言」 オウム真理教と終末論の現在
近代宗派展開の中で、オウム真理教を考える――  樫尾直樹 (宗教学)
【参考】著者は現在、慶応大学助教授である.
http://my.spinavi.net/isd/
http://www.spinavi.net/modules/news/article.php?storyid=13


[751]新宗教の終末予言(1) 04/11/23 20:19 GK1fzYq/d22
『大法輪』1996年8月号(大法輪閣)200-207頁
「新宗教の終末予言」 オウム真理教と終末論の現在
近代宗派展開の中で、オウム真理教を考える――
  樫尾直樹 (宗教学)
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◇「終末」の兆候と予感
 昨年の阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件に、世界の終焉の兆候を感じ取った人は少なからずいただろう。終焉それ自体が終焉してしまっていることを主張するポスト・モダニズムの言説は近代批判としては意味を持っているが、それにもかかわらず、東西間題の終焉以後前面化してきた民族紛争や政争、温暖化やオゾンホールといった地球規模での環境問題など、どこかで「終末」について考えざるを得ない状況はたしかに依然としてある。
 オウム真理教がサリンを撒いた背景には終末思想があった。またそうした昨年の様々な出来事に「終末」の表徴を読み込み、すでに世界は「終末」の過程に突入したことを信者に公式に表明した新宗教の教団もいくつかある。その事実自体、「終末」のひとつの象徴であると言えるだろう。しかし、地下鉄サリン事件から一年以上が経ち、公判を通して徐々に明らかにされてきている一連のオウム真理教事件を考えるとき、そこには単にそう言って済ませられないものがある。
 そこで本稿では、オウム真理教の終末予言を、日本の他の新宗教の終末予言と比較検討しながらその特徴を明らかにし、とりわけ現代日本におけるその社会的、文化的背景と終末論の現在について 考えてみたい。新宗教教団には何らかの 形で世界の「終末」を唱えるものが少なくないが、ここでは紙幅と行論の都合上、オウム真理教の他には主として大本、真光、阿含宗の三つの教団を取り上げることにする。

◇「立替え立直し」としての終末――大本の場合――
 三ぜん世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたぞよ、梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかにされて、尻の毛まで抜かれて居りてもまだ眠が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では国が立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ……(『大本神諭 天の巻』)
 これは一九世紀末に(明治二五年から)大本の開祖、出口なおが神がかって記した「お筆先」の冒頭で、天理教など幕末維新期以後の新宗教に見られる典型的な終末観が端的に示されている記述である。幕末以降、外国列強から政治的社会的な圧力や影響を受けて日本が近代化を進めていく過程で、特に都市下層民や農民にその社会的矛盾がふりかかっていた。それは日本人が欧米の文明に魂を売り渡したために日本が「獣の世」となっているからである。なおは、このように国家に対する痛烈な批判を行い、「強いもの勝ちの」世を根本的に変革するために、隠蔽されていた真正な神が姿を現わし理想社会が建設される時がいままさに到来しつつあることを予言した。反近代主義および反西欧主義と民衆の側からの土着主義的ナショナリズムを基調とした以上のような「立替え立直し」の思想は、大本の終末論の核心であると同時に、近現代終末思想のモデルとなった。


[752]新宗教の終末予言(2) 04/11/23 20:19 GK1fzYq/d22
 大本ではその後大正中期から昭和前期にかけていま一人の教祖、出口王仁三郎によって、終末思想は先鋭化され変節されていく。なおの立替え立直しの思想は記紀神話の鋳型に流し込まれ、天皇崇拝に習合していくのである。艮の金神とは国祖、国常立尊であると読み替えられ、立替え立直しの切迫感と危機感とがより強く称揚された。王仁三郎は世界統一を行う救世主として天皇をみなし、いわば理念、理想としての「天皇」像を基底に捉えたウルトラ・ナショナリスティックな終末論を展開したのである。大正十年と昭和十年の二度にわたる大本事件は思想的にはこの点に瑞を発する。
 このまま行けば世界戦争(日本も参戦する)や天変地異は避けられない。しかし決して「終末」が避けられないわけではない。回避と救済のために最も必要なのは、神の意にそった生き方をすること、すなわち人々が改心し覚醒して「自己(われ)よし」の心を捨てることであるとされる。

◇「火の洗礼の大峠」としての終末――真光の場合――
 大本から世界救世教に至る鎮魂行法をその中心的実践とする潮流に位置付けられる真光(世界真光文明教団、崇教真光)にも、立教当初より天皇崇拝とウルトラ・ナショナリズムがある。この教団の終末予言は大本と比較してやや漸進的な感があるが、終末の切迫感や危機意識は勝るとも劣らない。

 そを(宇宙の神の秘めごと)究め得るに到らん前に汝等人類の地の上には、汝等神の子として魂霊の大ミソギハラヒ致さずば、次ぐ世の種人として用い難き時到りありて火の大峠来たる寸前に参りあれば、重ね知らさんと思うなり。……(中略)……今様の心根にては、悪と自利欲以外に用うる法を知らすこともむつかしく、下手いたせば人間宇宙、自然をも破壊し去り、神界にも高級霊界にも厄いを及ぼすに到るやも計られず、一応その進歩の足をとどめ人間大掃除致す仕組みの方を先に進ましむること止むなきわけある故に、地の上の現象荒々しく相成る仕組みを進め、次第に人力の限界サトラしむる外途なきを如何にとやせん。(『御聖言』)
 真光の教祖、岡田光玉は、昭和三七年から「火の洗礼」期に突入したという神示を受けた。真光の教えでは、現代は、物資(物主)文明から霊主文明へと転換する神の経論の一大転換期に当たっている。しかしそうした「火の洗礼の大峠」に今まさに差し掛からんとしているにもかかわらず、人類は「自利欲」にかられ神の天意に自ら気付こうとはしない。そこで神はこの物質文明の世界を「大掃除」しようと、様々な天変地異を引き起こすのである。
 光玉は高度経済成長による自然破壊、環境汚染、薬害(この問題をまず言挙げしたのは、なおであった)といった社会的問題に対して、それをいちはやく察知し、科学主義的世俗主義を強烈に批判した。こうした「大峠」を人類は越えて行くことが果してできるのだろうか。「火の洗礼の大峠」を越えるために神から与えられたのが「真光の業」と呼ばれる手
かざしの実践である。それによって人々に霊魂や神霊界の実在を知らしめると同時に「我利」や「自利欲」に囚われない心を持つように想念転換させ、地上天国、霊主文明到来以後生き延びる「種人」を育てていくことができるのである。


[753]新宗教の終末予言(3) 04/11/23 20:20 GK1fzYq/d22
◇終末予言の構造
 さて、これまで大本と真光の終末観を概観してきたが、両者に共通する終末予言の特徴と構造を整理しておこう。
 まず終末予言が行われる背景には現実社会の切迫した様々な問題がある。大本と真光とでは先に触れたように時代的な違いがあるが、いずれにしても、社会が近代化にともなって神の本意からはずれた状態になっており、その根本原因はエゴイズムにあるという認識がある。解決し難い社会的問題の原因を「神」の言説によって解釈することによって解決の方途を探り、それを民衆に対して「心」の問題として説明する。特殊から普遍へ、そして再び特殊へというダイナミックな解釈によって、常に神と関係づけられた個人の自律性と自己責任の観念が導き出される。
 人々に気付きを与える終末の兆候としての天変地異と最終的な破局としての終末のヴィジョンが「立替え立直し」であり、「火の洗礼の大峠」である。しかしこれらの観念は単に破滅のそれではない。重要なのは常に変革できるという信念があることである。「みろくの世」や「霊主文明」の到来と待望があるのだ。終末の切迫性は、いまここでそれを回避する、あるいはそれから救済されるという現世性と千年王国的理想社会の到来という未来性に支えられている。最終的な破局は回避できるのである。この信念はきわめて重要である。破局の回避と新世界の到来による救済を実現するために要請されるのは、「自己よし」の心や「自利欲」、すなわちエゴイズムを捨てて改心することである。それによって終末のヴィジョンに関する予言は結果的にはずれることになる。しかしそれは当然望ましいことであると同時に、信者一人一人が果たすべき義務でもある.     
 以上が大本と真光の終末思想の骨格を なすものであるが、これは新宗教を含む日本の宗教伝統における終末思想の一般的な構造であると言える。

◇「終末」以後のヴィジョン――オウム真理教の特殊性
 大本は、大本事件における警察の強制捜査など、オウム真理教との類似性を指摘されてきた。また大本およぴ真光は、終末のヴィジョンに賄してオウム真理教との共通点があるとも言われる。しかし、終末への対処の仕方や「終末」以後のヴィジョンに関してはじっさい決定的
な違いがあると言わざるを得ない。オウム真理教の終末予言は平成元年より予言書の出版という形で公にされ、その後状況に応じて変容していくがヾまずこの教団の終末観の骨子を確認しておこう。
 神は人工的な火を使ってカルマ落としをさせるだろう。それがハルマゲドン(人類最終戦争)だ!…‥核兵器によるすさまじい破壊の様子。大きな災害を与える のような爆弾−.ハルマゲドンは、遠い未来の出来事ではないのだ。……神の怒りによる大破局を、神を心から信じる超人類のみが乗り越え、新しい世界を築くのではあるまいか?(『滅亡の日』)
 その破局は新しいタイプの人類(超人類)誕生して平和な世界を築くに至るためには、避けて通れないものである……(しかし)オウムが頑張って成就者を出すことができれば、その被害を少なくすることができる。(『滅亡から虚空へ』)
『ヨハネの黙示録』やノストラダムスの予言詩の解読という形式で予言されたオウム真理教の終末のイメージは、一言で言って集団の「カルマ落とし」によってもたらされる破局である。教祖、麻原彰晃は当初、終末を回避できると述べていたが、それは「避けて通れない」ものとして次第に肯定的に見なすようになる。では回避できない終末をどう乗り越えたらよいのだろう。麻原は修行によって「超人類」となるしか道はないと言う。終末が訪れる時期は具体的に二〇〇〇年から一九九七年、一九九六年へと早められて行き、その切迫感はせりあがっていった。終末の必要の意識がその待望、そしてその「生産」へと向かうのは必至であった。麻原は新世界の具体的なヴィジョンを持っていなかったわけではない。
「シヤンバラ」や「ロータス・ヴィレッジ」がそれである。しかし「終末」以後の世界の構築とは明確には結び付かず、漠然とした危機感と切迫感だけが先走っているにしかすぎなかった。


[754]新宗教の終末予言(4) 04/11/23 20:21 GK1fzYq/d22
 さて、以上のようなオウム真理教の終末観は先に見た一般的な終末観とどう異なるのか。一般的な終末観ではたしかに終末は迫ってきており現状のままであれば天変地異が起こり世界は終焉することが悲観的に説かれるが、その一方で人間の行動次第では終末は回避でき終末後の理想世界、地上天国が必ずや到来するという楽観的信念がある。いわば悲観的観測と楽観的信念との間の葛藤、せめぎあいの上に「終末」観念は成立しているのである。それに対してオウム真理教の終末観は悲観的な方に極性化されている。終末は回避できないので、それから生き残ることを一義的に考えなければならない。その手段が修行である。修行によって獲得される超能力によって技術主義的にサバイバルすること、まるでそれはゲームのようだ。大本や真光では最終的には「心なおし」こそが終末回避の方法であったこととは実に対照的である。いまひとつは終末の具体的時期の予言である。一般に終末の時期は何年(何月何日)と具体的に予言されるものではないのである。

◇終末予言の系譜――ノストラダムスと酒井勝軍――
 麻原の終末予言の特殊性からすれば、その千年王国「シヤンバラ」はいわば観念の適例と背理であった。だがそれが特殊だからと言って、オウム真理教の終末観はそれ自体オリジナルなものであるというわけではない。ここではこの教団の終末観を系譜学的に解体してみたい。その系譜とはノストラダムス(および阿含宗、五島勉)と酒井勝軍(およぴ竹内巨麿)である。

 麻原が教団設立以前に阿含宗に関わっていたことはつとに知られていることであるが、麻原の終末予言は阿含宗の教義や教祖、桐山靖堆の予言書に大きく影響されていると考えられる。桐山は『一九九九年カルマと霊障からの脱出』や『一九九九年七の月が来る』などの著作においてノストラダムスの予言詩(特に、一九九九年七の月/空から恐怖の大王が降ってくる/アンゴルモアの大王を復活させるために……)の解読を行い終末予言をしている。桐山によれば、「アンゴルモア」とは「アーガマを説いたモンゴルの王、すなわち仏陀釈尊」あるいは「モンゴルの王が鋭いたアーガマの法、すなわち成仏法」を意味しており、人々が「破滅のカルマを断ち切れば、破滅は生じない」。また「あと三〇年間――つまり、二〇一〇年まで地球に破滅的な出来ごとが起こらなければ、人類はそのあとかなり永い間、平和と繁栄をたのしむことができるであろうと考えている」。
 桐山の終末予言は結局『阿含経』(アーガマ)に帰依すれば終末の破局は回避できるというものであり、オウム真理教や大本や真光のような強度の切迫感は見られない。とはいえ麻原は、桐山の著作や五島勉の『ノストラダムスの大予言』に影響されて『ノストラダムス秘密の大予言』を著したと思われる。ノストラダムスや黙示録といった、かつての予(預)言書をテクストとして解釈し、新たな予言を引き出すという方法を継承している点は注目に値する。また『日出づる国、災い近し』における核兵器やレーザー兵器などを使用した戦争と終末のイメージは、五島の前記著作のそれと酷似している。
 麻原はまた、竹内巨麿が開いた皇祖皇太神宮天津教のイデオローグで日猶同狙論を説いていた酒井勝軍の予言、「人類は今世紀末のハルマゲドン(人類最終戦争)で滅亡する。生き残るのは神仙民族だけだ。その王は日本から出るが現在の天皇とは違う。」から、修行によって超能力を身に付けた「超人類」であるオウム真理教出家修行者のみが生き残るとい
う予言を引き出した。ちなみに、酒井勝軍が影響を受けた竹内巨麿に伝承された偽史・超古代史文献『竹内文書』が、真光など一部の新宗教の終末予言だけではなく教義全体に大きな影響を与えたことはきわめて興味深い。


[757]新宗教の終末予言(7) 04/11/23 20:26 GK1fzYq/d22
◇結 語――終末論の現在と「世界」の終わり――
 これまで大本や真光の終末予言とオウム真理教のそれとを比較し、後者の特殊性を明らかにするとともに、その形成に関する影響関係を簡単に見た。新宗教の終末予言はまだ他にもあるが、その特徴についてはある程度明らかになったと思う。最後に以上を踏まえて結論として、終末論の現在と、世界の終焉と危機の言説を考察することの現在的意味について若干考察したい。
 オウム真理教の終末予言はその根底にそれ自体救いようのない観念の纂奪を持っていた。そしてその成り立ちは、一九七〇年代以降の「精神世界」やニューエイジの精神潮流から絶大な影響を被っている。オウム真理教の教義ははっきり言ってそうした潮流が雑誌文化の中で通俗化したものの寄せ集めでしかない。しかしそれにもかかわらず、サブカルチャーのがらくたを、整合性に欠けるとはいえよくここまでまとめあげたものだとも思える。
 実際オウム真理教の簑奪された観念とほとんどの「精神世界」の理念とは大きく異なってはいるものの、同時に両者は常に終焉を語らざるを得ないという点で共通している。この点はきわめて重要である。そこで語られる終焉とは世界の終わりと人の死である。人の死が避けては通れないのと同じように世界の終わりも避けては通れないとする考え方は、あながち否定できるものではないだろう。だれもそれを実証や経験することはできないのだから。だが世界の終わりや危機については別に宗教的言説でなくとも、エコロジーや力学の言説でもいい。同じように予測される終わりを語っているからだ。その意味で一見非宗教的に見えるそうした言説それ自体がしばしば宗教的に見える。また最近は逆に、宗教的言説を正当化するために科学的言説を援用する教団も増えてきた。終末論の現在はまさにここにある。世界に内在する諸領域がこぞって終わりを語ることによって結果的に「終末」の観念を生産しているこの現実。オウム真理教事件から我々が考えなければならないのは、この現実に対するラディカルな批判なのである。
 この現在の中で、冒頭で触れたようなモダン/ポスト・モダンに関わる終焉の終わりというテーマに逃げずに、終焉について考える必要がある。オウム真理教事件から学習できるその可能性のひとつは、終末予言が終末の生産に結び付く地点を探すことである。要するに終末の生産を隠蔽した終末回避の言説と行動を見極めることによって、終焉を語る言説を批判することである。最後にこの点に関する新宗教批判の具体的な視点を示しておきたい。当該教団の教えと実践において、終末に備えるために「心」の成長や向上を唱いながら、結果として個人の主体牲や自律性を抑圧していないかどうか、また滅び行く世界を救済すると言いながら、適に教団のために世界を欺瞞的に利用していないかどうか。我々は「恐怖」と「不安」の政治学に対して、「理知のぺシミズム、意志のオプティミズム」(グラムシ)を常に働かせねばならないのである。

【参考】著者は現在、慶応大学助教授である.
http://my.spinavi.net/isd/
http://www.spinavi.net/modules/news/article.php?storyid=13

(※日記作者 755、756は754と同一のためカット)


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