暴かれた真光日本語版
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2004年05月30日(日) 093 judge

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中外日報1982年9月3,6,8日8-9面

〔ニュース追跡:世界真光文明教団事件(上)〕(9月3日8−9面)


<”二人の後継者”に教団分裂の危機>
<法廷で争われた代表権――二代教え主に関口栄氏>

 歴史の浅い新宗教教団にとって、教団創立者から二代目への転換は、教団消長につながる大きな鍵と見られている。世界真光文明教団では、創立者の遺言をめぐって”二人の後継者”が現われ、八年余りの裁判を経てこのほど和解が成立した。

 紛争は昭和四十九年、岡田光玉初代教え主(創立者)の死去を契機に、当時の崇教局長(布教責任者)・関口栄氏と初代教え主の養女・岡田恵珠氏が各々代表役員の地位を主張して争われ、同五十二年に東京地裁民事八部で関口氏が勝訴し、仮処分も行なわれたが、岡田氏は更に高裁に控訴し、最近まで法廷で争いが展開されていた。

 七月十日に和解が成立し、関口栄氏はこれまでの東京地裁、高裁、最高裁での仮処分判決においてもすでに認められていたとおり世界真光文明教団の教え主(代表役員)であることが確認された。他方代表役員としての職務執行をすでに停止されていた岡田恵珠氏は名実共に教団から退き、今後は別法人の「宗教法人真光」で活動することになった。

八年余りにわたる紛争の経緯を取材すると、岡田恵珠氏を擁立する一部幹部の言動に”陰謀””策略”をめぐらし、教団を私物化する動きまで感じられる。こうした動きが社会から宗教界の風潮と見られることを恐れ、もって他山の石とする意味から、以下、四回にわたる裁判所の審理、判断と関係者の証言等を基に、八年間に繰り広げられた世界真光文明教団の”点一坊〃事件を再現し、連載する。



<やっと”光”さす――教祖の養女(岡田恵珠さん)と和解>

<教祖没後の”正統”争いに八年目の終止符>

【”苦悶”の八年――】

<昭和四十九年> 

 六月二十三日・初代教え主死去。同二十五日・幹部通夜の席で、恵珠氏は「二代は関口さん」との初代の遺言を発表。七月五日・恵珠氏名義で虚偽の代表役員登記。同十三日・初代の教団葬で、関口氏の二代教え主就任を公式発表。八月一日・”ご神示”と称するメモをもって、恵珠氏は教団最高位を主張。九月十八日、関口教え主は、代表役員の地位保全と恵珠氏の代表役員の職務執行停止の仮処分を申請。

<昭和五十年> 

 七月・東京地裁判決で、関口教え主の代表役員は認定されたが、仮処分措置をとる緊急牲、必要性が明確でないとして仮処分申請は却下。同八月・関口教え主は、仮処分申請について東京高裁に控訴、同時に確定判決を得るため東京地裁に本案訴訟。

<昭和五十二年> 

 二月・東京地裁判決で、関口教え主の代表役員を確認。同三月・東京高裁判決で、仮処分が認められる。同九月・恵珠氏は仮処分について、最高裁に上告したが棄却さる。

<昭和五十四年> 

 五月・関口教え主は、恵珠氏側に対して、七億六千万余円の業務上横領を告訴。

<昭和五十七年> 

 七月・和解成立、関口教え主の代表役員を確認、恵珠氏は教団を退く。

(1)教団の歩み

 世界真光文明教団は、昭和三十四年、岡田光玉氏が前身である「陽光子の友」団体をつくり布教活動をしたのが始まりで、当時、東京・世田谷界隈を自転車を乗り回し、病気、貧困等を”真光の業(わざ)”という手かざしによって救い、教団の教えを説いてまわった。

 数年後には一万人を超える組み手(信者)が集まり、同三十八年、「宇宙天地、人類創造の元主大神、天祖皇祖人祖を奉斉し」その教義の宣布、実践を目的に、東京・田園調布に本部を置き、宗教法人「世界真光文明教団」を設立、岡田光玉氏は初代教え主となった。

 その後、教線が拡大し、同四十九年には組み手(会員)三十万人、全国五百カ所の拠点、二十カ国に支部、道場を設立する等、めざましい発展を遂げる。

<不可解な”一夜の変身”――「二代は関口」の遺言伝えながら>

(2)創立者の死

 昭和四十九年六月二十三日、岡田光玉氏の死去によって後継者問題が始まる。二日後の二十五日、初代教え主の通夜が幹部によって営まれた。この時、恵珠氏は教団本部「教え主室」に関口栄崇教局長を招いて、「二代は関口さんにお願いしなさい」との初代教え主遺言を伝えた。教え主の指名を受けた関口氏は「これは大変なことですから、本部の局部課長にも聞いてもらいたい」と申し出、恵珠氏は要請に応じて冨田萬美秘書課長に約三十人の最高幹部(本部局部課長、方面指導部長)を集めさせ、同夜十時四十五分頃、再び遺言を次のように発表した。

 六月十三日朝、父(初代教え主)にご神前に呼ばれた。父は、昨夜、神様から「遅い遅い、もう間に合わん、ヤマト人遅い」と叱られたとおっしゃった。

 そして、父がかけておられた「父の御み霊(ベンダント型)」を私(恵珠)にかけて下さった。

私が、もしお父様がご昇天されたら後はどうしたらよいでしょうかとお伺いすると、「二代は関口さんにお願いしなさい」といわれ「二代様用の御み霊」をお預かりした。父は続けて、「この御み霊は、二代、三代と続くものである」とおっしゃった。いつまでもお預かりしていると怖いので早くお渡したいのです。皆さん、私の言っていることをわかって下さい。私はこのような大変なことですから、私情を交えないでお話いたしました。

 父は三つの御み霊をかけておられました。一つは二代様用の御み霊、一つはラーム氏から頂いていた分、今一つは私がおかけしている父の御み霊です。そして父は、パリに行かれる前に、二代様用の御み霊を、私におかけになって「もし何かあったら二代目を嗣ぐように」と言われました。そして無事に父が帰国なさった時、「預けておいた御み霊を返しなさい」と言われて、二代様用の御み霊をお返し致しました。私がおかけしている御み霊は、父の御み霊であって二代様用のものではありません。これは大変なことですから私情を交えずにお話し致しました。

(以上の内容は、七月十七、十八日の両日、発表に出席していた本部局部課長、方面指導部長に、文書によって確認し、署名、捺印を求めたもの。資料1参照)

 重大な発表だったため、幹部の一人が再度遺言の確認を求める。と、恵珠氏は「二代は関口さんにお願いしなさいといわれました」と繰り返した。その後、関口氏が二代の指名を受けるとの挨拶があった。恵殊氏は二代用の御み霊を預かっているのは怖いから一刻も早くお渡ししたいとして、その場で渡そうとしたが、その時、夜の十一時を過ぎていることもあり、関口教え主が「もう遅いですから、明日、神殿で初代様のお柩の前でお受けしたい」と提案し、出席者全員の賛同を得て、翌二十六日に行なわれることになった。

 二十六日早朝、上級幹部等は二階神前広間に集まっていた。ところが幹部を一旦二階から退出させ、恵珠氏の側近である有間たまえ経理部長と富田秘書課長の二人のみが立ち会い、御み霊渡しが行なわれ、当日出席した幹部等は重大な立ち会いの席からはずされてしまった。

 全幹部への二代指名発表が、急遽中止となり、変則的な形で「御み霊渡し」が行なわれたことについて、疑問を感じた幹部等は、初七日の二十九日、中止になった原因を追求、その結果友森清晴警衛警備部長の指示によるものと判明する。その後の推移を見ると、この友森部長の”不可解な指示”が、後の許反計画を想起させる。

<「み霊渡し」の後で――こっそり代表役員の登記>

(3) “天一坊事件”の発端

 教団規則第六条一項および二項によると「その代表役員は、この法人の教え主をもって充てる。後任の教え主は、現在の教え主があらかじめ指名した者をもって充てる。あらかじめ指名していない場合は、責任役員の互選により選定する」となっている。

 ところが七月五日、関口教え主に何の相談もなく、恵珠氏、友森部長、山本正彦経理局長、岡本洋明調査部長の四人は、「初代教え主の遺言の如きもの及び責任役員の互選によって代表役員は決定された」という文書を作成し、恵珠氏の名前で代表役員の登記をしてしまった。世界真光文明教団の”天一坊事件”は、これを発端として紛争に突入する。

 関口教え主はじめおもだった教団幹部は、恵珠氏を擁立する一部幹部が画策した”虚偽登記”を知らないまま、七月十三日、「みたまおくりの祭」(初代教え主の教団葬)当日、一万五千人の組み手が東京・九段の日本武道館に参集、その席上、松平定堯事務長から次のように発表されている。

 「恵珠様のおことばを謹んでお伝え申し上げます。『救い主様(初代教え主)より二代教え主は”関口さん”にお願いしなさいといわれました』。おことばそのままを、みなさん方にお伝えいたします」(当日の録音テープから転記)

 その後、一万五千人の組み手の前で、関口教え主の就任挨拶が行なわれている。

 翌十四日、関口教え主は「七月度月始祭」を斎主として教示を行なっている。十三日の公式発表、十四日の月始祭を終え、本部(田園調布)で執務についた関口教え主に対し、本部員、特に教え主を補佐すべき秘書課が非協力的で、関口氏を二代教え主として迎える雰囲気が乏しかった。十七日、不審を感じた関口教え主が書類等を検討すると、既に五日付で岡田恵珠名義で代表役員登記がなされているという事実が発覚する。

 事態を憂慮した関口教え主側の側近幹部等は、今一度、六月二十五日夜の遺言を確認する必要を感じ、同夜出席した局部課長、指導部長等に確認を求め、その結果、「ニ代は関口氏である」という署名捺印のはいった確認書(資料1参照)を得た。しかし、関口教え主は、恵珠氏との対立による教団内部の混乱を防ぐと共に、
恵珠氏の名誉に傷がつかないようにとの配慮から、虚偽登記の件を伏せたまま、十入日、第一種会議(本部局部長、方面指導部長会議)を開いた。

 議事録(議事録記責任者=松平事務長、資料2)によると、出席した大方は、虚偽登記の件を知らないまま、恵珠氏の処遇について諮問している。同会議では無論だれも関口氏が二代教え主であることに異議をはさむ者はなく、それどころか、虚偽登記を画策した友森部長、岡本部長の両氏も、関口氏が初代教え主の一切を引き継ぐことを認めており、

「1」関口二代教え主が霊、体の面とも初代教え主より継承し、教え主として活動する
「2」恵珠氏の立場については、関口教え主と恵珠氏が話し合いの上で決定する
「3」幹部組み手は、教え主の裁可のもとに行動していく

――とのことが確認されている。

<私物化の動き?――側近者たちの”画策”>

(4)影の”演出者”

 二十五日、金子明弘訓練教学部長補佐と工藤高裕同課長は、虚偽登記の事実経過を確認するため、田園調布の梅林旅館で、友森部長と会見し、真意を糺した。友森部長は、教団規則を知りながら虚偽登記したことについて「僕も疑義があった。規則に抵触しはしないかと。実際のところ山本局長より、教え主というのは内部的なことで、代表役員は法律的なことである。本質的に違うという説明を受けて納得した。関口さんは二代教え主に間違いない、こっち(恵珠氏)を僕は教え主とは思わない。代表役員を関口さんに正さなければいかんと思っている」(同会談の録音テープの要約)と説明している。

 同説明を聞くと、虚偽登記を画策し、”教え主(内部的)は関口氏、代表役員(外部的)は恵珠氏”という教団規則に反した理論を主張しているのは山本局長で、友森氏は引きずられた形になっている。しかし、彼の法廷証言によると、友森部長こそ隠れた”演出者”と見られる節がある。

 証言によると、友森部長は初代教え主の亡くなった翌日、恵珠氏に対して、”重大なことの返事は、自分の承認なしには絶対にいうな”との旨述べているわけで、これではまるでフィクサー同然である。二十四日に続いて、二十五日の遺言発表直後も、友森部長と恵珠氏は、深夜の二時頃まで会談している。二十五日夜、自ら、”ニ代は関口さん”という初代教え主の遺言を発表し、二代用の御み霊を持っていることに恐怖さえ感じ、早く関口氏に渡そうとした恵珠氏が、翌日の「御み霊渡し」、七月五日の虚偽登記へと大きく変節した理由を考えると、そこに友森部長の”意見”が大きく影響しているものと見られる。

 一方、関口教え主はあくまで穏便に事態解決をはかろうと、恵珠氏に直接話し合いを求めた。しかし恵珠氏側は何度か「ご神業多忙」を口実に関口教え主の要請を拒否しつづけた。しかしようやく二十九日になって、面会が実現をみた。席上、恵珠氏は終始無言で通し、ただ関口教え主の言葉をノートにメモするだけだった。同席した天野正勝顧問が受け答えし、関口教え主の問いに対しては、文書で回答(資料3参照)することを約した。翌三十日、天野顧問から寄せられた回答書では、関口教え主を”ニ代様”とよんでおり、また月始祭での着席位置について、関口教え主が恵珠氏より上座であると回答している。ただし、代表役員については恵珠氏ということで、とりあえず関口教え主には責任役員に入ってもらうと回答している。


<”神示”の登場――「秘発一号伝達書」の怪>

(5)二人の教え主

 八月二日、恵珠氏は熱海元み魂座に関口教え主を招き、「ヨのみ霊もちて娘に与えよ」と記されたメモを呈示した

。同文書は八月一日、元み霊座の初代教え主の部屋を整理している時に発見されたもので、初代教え主が六月十三日に記した”ご神示”であると主張した。以後、恵珠氏側は同メモを”ご神示”と称して関口教え主の排斥に取りかかる。

 同メモの発見によって恵珠氏は一段と高姿勢に転じ、四日の月始祭では、関口教え主より上座に着席することにしてしまった。続いて恵珠氏は、八月七日付で「秘発一号伝達書」を出し、同メモの意味について「ヨのみ霊を与える」とは「父の御み霊を与える」、すなわち「恵珠様にヨニマス大天津神の地上代行者のみ役を与える」と解釈し、 ”恵珠様はこのご神示により、六月十三日にヨニマス大天津神の地上代行者となり、神事一切を取り行うことができ、代表役員として教団の頂点に立ち、関口氏には本山造営と教線拡大の陣頭指揮を命じ、恵珠様を補佐代理させることができる”と主張しだした。

 ここまでの経過を見ると、恵珠氏側も七月末日までは関口氏を”教え主”であると認めており、代表役員については、それが虚偽であるがとりあえず恵珠氏のままで体面を保とうと考えていた。それが八月一日に”ご神示”と称するメモを発見したとして、恵珠氏を名実共に教団最高位につけ、関口教え主を下位におかんと画策し始めたわけである。

 こうして恵珠氏の側近者等は、恵珠氏を教団最高位に置き、関口教え主をその代行者であるとする主張を強引に推し進め、幹部の離反を画策し、関口教え主が本部での職務執行が不可能な状態に追い込んでいく。関口教え主は、八月末にはとうとう公式行事に出席できない状態に追い込まれ、九月度の月始祭では、教え主が斉主するのではなく、ヨニマス大天津神のただ一人の代行者と主張する恵珠氏が、斉主代行を事務長に命ずるという異常事態となった。

 関口教え主は、この事態改善の最後の手段として、九月五日、全国に”教え主の承認(印)なき文書・通達は無効である”として、教え主の絶対性を強く打ち出した。ところが恵珠氏は二日後の七日付で、「代表役員『教え主』岡田恵珠」よりの通達で、五日付で出した関口教え主について、教団は関知せずと告示し、ついに恵珠氏は関口教え主を教団かち追い出した如き見解を示すと共に、初めて公式に自らを”教え主”であると称する。

 ことここに至ってやむなく関口教え主は、九月十八日、裁判所への問題提起の意志を固め、関口教え主の代表役員地位保全と恵珠氏の代表役員の職務執行停止の仮処分申請を行なった。

(以下次号、文中の役職名は当時のもの) =つづく=

【資料1】6月25日の初代教え主遺言についての確認書
(写真:朝熊俊文氏の全文自筆署名捺印文書)

    二代教え主様のご指名について
 昭和四十九年六月二十五日午後十時四十五分頃、世界真光文明教団本部(場所東京都大田区田園調布二ノ二十五ノ十)の教え主控室において教え主様お代理の岡田恵珠様が、本部局部課長及び各方面指導部長の参集を求め、参集した別紙の者に対して、初代教え主岡田光玉様のご遺言について左記のようなお伝えがありました。
        記
 父のおコトバをお伝え致します。六月十三日の朝、父にご神前に呼ばれました。そして父は、昨日(12日)神様から「遅い遅い、もう間に合わん、ヤマト人おそい」と言われたとおっしゃいました。そして父がいつもかけておられた父のおみ霊をお預かり致しました。

 もし父が昇天なさったら、後はどうしたらよいでしょうか、とお伺い致しましたところ「二代目は関口さんにお願いしなさい」と云われ二代教え主様用のおみ霊をお預かり致しました。そして続いて「このおみ霊は二代、三代とつづくものである。」とおっしゃいました。

 いつ迄もお預かりしていると恐いので早くお渡ししたいのです。皆さん、私の言っていることをお判り頂きましたでしょうか。
判って下さい。私はこのような大変なことですから、私情を交えないでお話致しました。判って頂きとうございます。

 父は三つのおみ霊をかけておられました。一つは二代様用のおみ霊、一つはラーム氏から頂いていた分、今一つは私がおかけしている父のおみ霊です。そして父は、パリに行かれる前に、二代様用のおみ霊を、私におかけになって「もし何かあったら二代目を嗣ぐように」と言われました。そして無事に父が帰国なさった時、「預けておいたおみ霊を返しなさい」と言われて、二代様用のおみ霊をお返し致しました。

 私がおかけしているおみ霊は、父のおみ霊であって二代様用のものではありません。これは大変なことですから私情を交えずにお話し致しました。

            以上
        右のとおり相違ないことを認めます。
           昭和四十九年七月十七日
            役職名 東部近畿方面指導部長
            氏名 朝 熊 俊 文 (印)


【資料2】第一種会議の議事録(写真)=省略=
【資料3】天野顧問名の回答書(写真)=省略=


【Web解説】
 「宗教関係判例集成」第5巻によると、金子訓練教学部長補佐と工藤同課長の証言は、関口氏勝訴のための証拠となった。
 この時岡田晃弥氏は、訓練教学部教官だった。つまり、真実を証言した直属の上司を彼は裏切ったわけだ。








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