2013年02月19日(火) |
問題提起のための自殺 |
宗教では自殺は一人の人間を殺すに等しいという考え方から古来から罪とされてきた。だが例外的に殉死ならば罪である自殺にはならないという。そのため仏教の即身仏やイスラム教のジハードでの自死は罪ではないとされている。
チベットで増えているという僧の焼身自殺も仏教でいう捨身なのだろう。彼らがわざわざ焼身自殺という特に苦痛を伴う方法を選ぶのは自分の苦しみを多くの人に伝えるためだと考えられる。 だが、もう一歩考えを進めてみよう。チベット僧の焼身自殺の狙いは「チベット問題が自分を殺した」と周りに認識させることで問題を重く取り扱わせることにある、とは考えられないだろうか。
日本でも、主人に物申すために腹を切るということがあった。それは「自分の屍を越えて、なお進む覚悟があるか」と問う行為だ。それは諌言が正しければそれを受け入れる器量が主人にはあるという信頼があるから成立する。その柔軟さは中国政府に求められるものかどうかは甚だ怪しい。 苦しみが分かってほしいのは理解する。だが自殺は己の命を掛ける行為だ。だからこそ、ただいたずらに問題を重くするために命を使うのではなく、もっと成算のある訴え方をしてほしいと筆者は思う。
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