言の葉孝

2006年10月22日(日) 宗教は大らかでいいのか


 浄土真宗というのは法然の弟子・親鸞を宗祖とする仏教の一宗派だ。そして「南無阿弥陀仏(「私は阿弥陀仏に帰依します」の意)と唱えれば全ての罪から許されて救われる」という非常に大らかな教えを持っている。
 今日は、うちの曽祖父の13回忌ということで法事が執り行われ、親戚一同で出かけたのであるが、浄土真宗の大らかな一面を見ることになった。

 寺の僧正が経を唱えているとき、家族の名前を読む部分がいくつかあるのだが、僧正はいきなり読経を中断して後ろを振り返って聞いたのである。

「すいません、このお名前ってどう読むんでしたっけ?」

 法事もそろそろ終わりに差し掛かり、最高潮であった足の痺れを一瞬忘れさせたものである。少なくとも、よどみなく進むはずの読経がここまであからさまに中断するのは初めて見るが、これもこの大らかな宗教では許される行為なのだろうか。

 自分自身、あまり格式ばったことは好きではないのは確かだが、事前に確認を入れるなど、仕事は仕事としてきちんと済ませてほしいものである。


【宗教は大らかでいいのか】

 この世の中は、幸せに生きている人でもふと気がつけば隣に苦しみがある世界だ。病や、罪、憎しみといった苦しみにとらわれ、一生を棒に振るケースも少なくない。もうどうにも普通の幸せは獲得できない状況を、俺は「救いがない状況」と呼んでいる。
 そして時々、俺はそういう状況にある人たちが救われる方法を考えている。

 宗教はその答えの一つだろう。「信じるものは救われる」という。それは神や仏など信仰対象が自分を救うのではない。信じるという行為そのものが、信じる者を救うのである。

 仏教や、キリスト教など、古典的な宗教は寺に入り、あるいは修道院に入るなどして修行をすると、途方もなく厳しく自分の行動が制限される。八正道などは普通は全て守りきれるものではない。
 だが、その厳しさは清らかさでもある。健康的でもあるし、それさえ守っていれば間違いはめったに起こらない。そういった状況に身をおくと、心が洗われる心地がするものだ。罪を犯してしまった者が寺に入れば、その厳しさが、幸せではないが苦しさを解くことになり、その人の救いになるのである。
 罪とは関係なく、苦しみや迷いにとらわれている人でも同じだ。厳しさに身をおくことによって「自分は信じている」という実感を得ることができ、その中に救いを見出せるのである。

 よって、あまり宗教は大らかであるべきではない、と俺は思う。





web拍手レス(“まほゆめ”にボチボチ手をつけているのだが、めがねがないとやはり執筆は辛い)

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