言の葉孝

2005年09月30日(金) 英語史の続きの日

 しまたー! 授業一コすっぽかしたー!

 水曜日の話なのですが、履修登録で、ちょっとしたミスから少し履修を組みなおしたのを忘れて、水曜日が1限目からあるのを忘れていました。
 ……結構ショックです。自分は授業中寝る事はしょっちゅうですが基本的に無遅刻無欠席な人間なので。その授業が出席をとらない授業で、記録に残らないのがせめてもの救いでしょうか。どのみち、以前ゼミの教室を間違え、先生が20分こなかったので臨時休講かと思って結果的にさぼっちまったことがあるのですが。

 あ、あと、レギュラーのネタで一つ。

 リンスとシャンプー間違えた!
 ハイ! ハイ! ハイハイハイ!
 あるある探検隊! あるある探検隊!


 シャンプーとリンスがセットになってると、色違いでボトルの形状がまったく同じだったりするじゃないですか。
 で、誰の気まぐれかたまにリンスとシャンプーの位置が入れ替わっていたりするんですよ。そういう時、高い確率でシャンプーしようと思ったらリンスだった、ということがあります。
 僕的にリンスはシャンプーの後でないとまったく効果が出ないと信じているので、とりあえず、水のかからない棚の辺りに出したリンス液を置いておいて(うちで使っているリンスは結構液体にしては固いほうで平地においておいても流れない)、シャンプーしてから回収します。

 とりあえず、忙しさにかまけて、くだらない話で日記は打ち切って、ゼミ発表用のレポートでも乗っけときます。6月22日24日で分けてやった英語史の続きです。




4、近代英語の形成
○標準英語の誕生
中英語から近代英語への推移は1400年代だといわれています。中英語は方言の多い言語であり、これが正しいという標準的な英語がなかったのですが、近代英語になって標準英語というものが生まれます。この標準英語が誕生した原因として挙げられるのは次の三つの説があります。

先ずは「オックスフォード英語母体説」。このころからすでにオックスフォードは学問の街として英国各地から学生が集まるところでした。そこのジョン・ウイクリッフという先生は宗教改革の思想を持っていたんです。それを伝えるために、英訳聖書を携え、オックスフォードで洗練された英語をもって各地に宣教師がこの思想を広めに行きます。そんなわけで思想と同時に広まったオックスフォードの英語が正式な英語であると認識されるにいたったのではないか、という説です。
他にはテン・ブリンクという人が唱えた「チョーサー英語母体説」という説があります。先日中英語のことを話すときに述べましたが、ジェフリー・チョーサーは中英語時代を代表する大作家でありまして、このテン・ブリンクという人はチョーサーをほとんど崇拝しているようなところがありまして、標準英語はオックスフォードから出たものではなく、宮廷から出たものであり、そこと関係の深かったロンドン生まれロンドン育ちのチョーサーこそが標準的書き言葉の祖であると主張しました。
で、最後にこれが現在の定説なのですがローレンツ・モールスバッハという人が提唱した「ロンドン英語母体説」というものがあります。この人は、さまざまな文書、特に公文書を音韻面、文法面から徹底的に分析調査し、現在までつながる標準英語がチョーサー以前からロンドンで自然に形成されてきたことを立証しました。
 そして書き言葉、単語のスペルは人の手で写本を作っていた時代は書き手によって綴りが違っていました。ところが1476年にウィリアム・キャクストンという人がウェストミンスターに印刷技術を持ち込むと、まったく同じ綴りを使った本が大量に印刷されるようになり、これがスペルの固定化につながっていったのです。

〇大母音推移
 文学部の人なら最低一つは第二外国語を習わなければならなかったのですが、特にヨーロッパ圏の言葉を習っていた人ならわかると思いますが、アルファベットを使っている言葉、たとえば仏語などはたいていスペルと発音が一致します。アルファベットは表音記号でありますからそれがあたりまえなのです。
 ところが英語は違います。たとえばmeatとbreak。同じeaという文字列が入っていますがその部分の発音は「イー」と「エー」、大分違います。
こういう、言わせていただければ英語を学ぶ上で非常に“クソ厄介”な代物を作り出したのは「大母音推移」と呼ばれる発音の大変化でした。ここでの悲劇はこの変化が印刷術が発達する途中の段階で起こってしまったことであり、固定化されてしまった綴りが発音の変化に対応しきれなかったことです。
 具体的にどういう変化が起こったのかを解説しますと、↓のように


長母音[a:]は、二重母音→[eI]への変化。(例:nameなど。「ナーメ」→「ネィム」。)
長母音[ε:]や[e:]は、長母音[i:]への変化。(feelなど。「フェール」→「フィール」。)
長母音[i:]は、二重母音[aI]への変化。(timeなど。「ティーメ」→「タィム」。)
長母音[?:]は、二重母音[o?]への変化。(homeなど。「ホーメ」→「ホゥム」。)
長母音[o:]は、長母音[u:]への変化。(foolなど。「フォール」→「フール」。)長母音[u:]は、二重母音[a?]への変化。(nowなど。「ヌー」→「ナウ」。)

 これがどうして起こったかについてはベルリン大学のヴィルヘルム・ホルンという人物がその原因を宗教改革にあると見ています。まず彼は人は興奮すると音をあげる、という事実を実験によって証明し、人々が声を張り上げ、宗教改革に盛り上がった興奮が発音を押し上げた、ということを論理的に説明しました。

〇イギリスにおける宗教改革とルネサンス
 この時代でも刻々と語彙は変化していきますが、この時代では少し事情があり、語彙変化に二つの流れがありました。そしてその二つの流れとは「宗教改革」と「ルネサンス」なのです。
 さて時は1500年代、イギリスには200年遅れでルネサンスに入ります。このころはまだイギリスは単なる田舎で、ばら戦争などの影響もあってここまでの遅れが生じたようです。また、この頃からイギリスは同時進行で宗教改革も行われます。1509年、即位したのはかの有名なヘンリー8世だったからです。2回は妻を斬首刑に処し、2回は離婚、1回は死別、と結婚したのはなんと6回。ヘンリー8世即位時イギリスの信仰はカトリックであり離婚は禁じられていましたが、それを解禁するために宗教改革を行ったのであります。
 ところでルネサンスの根幹にあったのはヒューマニズムです。中世は神を重視し、信仰の違いが戦争を生むということさえありましたが、ルネサンスは紙に関する書物ばかり読まず、もっと人間に目を向け、人間的な作品を楽しもうではないか、と簡潔にいうとこうなります。その基本は「古典を古典が書かれた言葉で読む」ということであり、この場合の古典とはたいていラテン語でかかれたものでした。その流れは英語に大量にラテン語を流入させることになります。
それに対する宗教改革は「神の言葉を理解するのにラテン語である必要はない」という主張のもと、入ってくるラテン語を跳ね除け、庶民にも理解しやすい、たとえばprophet(預言者)を唯単にwise manというなど平易な英語で訳した聖書を作ります。
 ラテン語をはじめとする外来語と英語の関係をわかりやすい例を使って説明すると日本でいう漢字と大和言葉の関係に近いところがあります。ラテン語と漢字は知識階級の使うものだったという点でもよく似ています。
具体例をあげてみましょう。

A rolling stone gathers no moss.(転がる石は苔むさず)

 これをラテン語交じりの難解な言い回しに変換すると、

Cryptogamous concretion never grows on mineral fragments that decline repose.(隠花植物の凝結体は、静止を拒絶する鉱物の断片の上に成長することはない)

 日本語で言ってもあんまりぴんとこないでしょう?
 しかし、それらを両方持ち合わせた人もいます。サー・ジョン・チークという人なのですが、教育の場ではヒューマニズムの第一線でラテン語教育に励む身でありながら、彼が英訳した本は宗教改革派に従い平易な文章を心がけたそうです。
 こういう状況に疑問をもつ人物は

The best form of education or bringing up of noble children.(貴族の子弟の教育、つまり育て上げる最善の方法)

 という具合に、難解な単語のすぐそばにもっと簡単な類義語を配置し、理解できるように工夫したのです。とにかくこうした流れで英語にはラテン語が大量に輸入されることになりました。

〇シェイクスピアへの反発から起こる英文法運動
 ヒューマニズムの英語はどちらかといえば英文法にこだわることなく、「意味さえわかればそれでいいや」と、時には造語も交えて自由な英語で作品が書かれました。特にその流れで有名なのがシェイクスピアです。名詞を動詞に使ったり、the most gladdest(最高にうれしい)といった、二重最上級や二重比較級は序の口で造語などもよくつかっているそうです。
 その反動かシェイクスピアの死後は英語にもっとしっかりとした文法を与えようという運動が起こり、いくつもの英文法書が書かれました。
 また、大母音推移によって生じている綴りと発音の違いを正そうという一字一音運動が起こり、たくさん出た文法書の中にも発音に合った綴りに直そうと主張するものが多数あったそうです。しかし、せっかく慣れてきたところにまた変えられてはかえって不便だと主張する人々も現れ、最後に出てきた大物はサー・フランシス・ベーコン。彼はこの問題を解決するには「発音どおりの表記に直す」か、「そのまま慣習に従って現状を維持する」かのどちらかだと言い、その上で、発音は常時変化しつづけるものであり、ことあるごとに変えていても仕方がないし、文字の意味もなくなってしまう。それにむしろ文字が変わらないほうがこれ以上発音が変わるのを防げるだろう、と説き、このときは慣習どおりの現状維持ということで決着しました。

〇イギリス首相の誕生、経済的にフランスを追い抜く
 ですが、英文法書の乱立により、英語の慣習は統一されていませんでした。そんな折、向かいの先進国フランスでは、自国語の純粋性を維持するために整理を行おうとアカデミー・フランセーズが創立されていました。これを手本として、イングリッシュ・アカデミーを作ろうという運動が「ガリバー旅行記」の作者ジョナサン・スウィフトを筆頭として起こりました。
 これはほとんど成功しかけていたのですが、折り悪く王朝がかわってしまい、次にイギリス人の上に立ったジョージ1世はドイツ人でした。なお悪いことにジョージ1世には英語を憶えるつもりはこれっぽっちもなく、これではフランスのように王宮の英語を軸に据えた英文法の確立は不可能になってしまいました。
 ところがとある事件で、その状況が変わってしまいます。それがサウシーバブル、と呼ばれる事件でして、これがはじけた後、経済的に追い込まれた国民が次々と自殺していくという事態に陥ってしまいました。そこでこの危機を収拾するために、ロバート・ウォルポールという人が大臣に就任したのです。
 ところがウォルポールはドイツ語ができず、ジョージ一世は英語ができないため、意思疎通ができません。二人はどうにか習っていたラテン語で会話を行いましたが、それを苦痛に思ったか、直接命令はできないと知ったジョージ一世は政治をウォルポールに任せました。これが首相制の誕生です。
 こうしてイギリス初代首相のウォルポールは経済を立て直すために徹底的に平和主義を貫き、ヨーロッパで起こる戦争には首を突っ込みませんでした。その間にフランスはいくつもの戦争を行ってきたため、いつしか国力が疲弊し、ずっと力を溜めていたイギリスに経済的に遅れをとるようになってしまいまして、これに気をよくしたイギリスはもうフランスの真似をすることはない、とイギリスは独自の路線で英文法確立、近代英語完成に向けて歩み始めます。

〇スペリングの確定
 もはや先進国フランスさえも追い抜き、お金持ちの多くなったイギリスには本屋がたくさんでき、それらが集まって辞書を作ろうということになりました。その白羽が立ったのが、大御所であったサミュエル・ジョンソンでした。ジョンソンは、その数年後2巻からなる立派な英語辞典を刊行します。
 ベーコンに一時は収められた発音と綴りの問題ですが、発音に忠実なスペリングに変えようとする一字一音運動はまだ続いており、それに従う者もいて当時はまだスペリングが不安定でした。そこにジョンソンの英語辞典という権威のある本が刊行されたことにより、ベーコンの通り、今までの慣習に従う、という方向で固められたスペリングがほぼ確定されました。
 また、当時は産業革命の時代に入ったところで、社会は流動的であったため、労働者階級の人も這い上がれる可能性もありました。その可能性にすがるには、読み書きが人並みにできるようになることです。イギリスでは、その論理が効力を発揮し、実際に這い上がる者もでてくるとなると、労働者たちはいっせいにスペリングの確定した書き言葉を勉強しはじめ、英文法に対するブームが生まれます。

〇英文法の統一
 それからしばらくして1795年に英文法が落ち着いてからは現行の英文法とそう変わらなくなります。つまり、英文法は統一されたわけです。その英文法統一に大きな役割を果たしたのがロバート・ラウスとマレーです。
 ジョンソンの英語辞典でスペルが固まりはしましたがまだ英文法書が乱立していた18世紀後半、ロバート・ラウスが出した「英文典」という英文法書が圧倒的な売上を記録しました。一番売れたということは一番広まった、ということであります。自然と、それを基礎として英文法が固められることになりました。
 実はロバート・ラウスという人物は、元々オックスフォードの詩学の教授ですが、オックスフォード、ロンドンの司教にもなり、果てには、健康を理由に断ったのですが、カンタベリーの大司教に指名されたこともあるのです。カンタベリーの大司教というと、首相よりも社会的地位が高く、つまりラウスは最上層階級の人物でした。それだけの地位の人が書いた英文法をマスターすれば間違いはない、物笑いにはなるまい、とそう考える人が多かったのか、とにかくラウスの英文法書は売れ、広まったのです。
 マレーは元々文法家ではなく、アメリカの法律家でした。仕事が成功し老後を過ごすに十分な富を築いたあと、38歳でさっさと引退すると、ニューヨークの気候を嫌ってイギリスに移り住みました。その際、隣が女学校だったのですが、そこの先生から女学生に教えるための英文法を書いてほしいと頼まれ、1795年に書いたものがよく出来ていたためか売れに売れ、半世紀に版は200を重ねて、2000万部を出版しました。その数からいって、当時英文法を勉強していた人はほとんど全てマレーの英文法書を使っていたことになり、つまり英文法は事実上ここに統一、確立されたことになります。

 サミュエル・ジョンソンが1755年に英語辞典を発行し、ものの半世紀でスペルの確立から英文法の統一がなされてしまったわけですが、彼らはちょっとした共通点を持っています。彼らは英文法を広めるために特別な運動を起こしたわけではなく、ただ彼らの本が売れただけだということです。
 フランスはアカデミー・フランセーズの例もあるように、国から言葉を発し、それを公式であり正式な国語として英文法の確立がなされておりましたが、イギリスは民間で本が出されて、一番売れた英文法書が基準となりました。それは見方を変えれば民主的な投票で自分たちの言葉の文法を決めたとも言えるのです。
 というわけで、英語がどこからやってきて、どのように変遷し、またどのように定着していったのかを一通り見てみたわけですが、このようにまとめてみると、ほかの言語はどうかは分かりませんが、英語はその変遷と定着の背景にさまざまな事件があり、偶然が重なって今の形となったと言えるでしょう。しかしその中には人々の言語に対する感情によって引き起こされたものがあることは見落としてはならない点です。
特に今日発表したサミュエル・ジョンソンの英語辞典からマレーの英文法書までの英語の固定化に関する一連の出来事において、彼らの本を選んだのは市民自身です。そういう観点から、世界を支配していく英語がどうなるかについては、身もふたもない言い方をすれば「なるようになる」、また、「どうにでもなる」であります。そしてそれを動かすのはこれからの歴史において世界市民が英語に対して持つ感情に左右されるということは間違いありません。




web拍手レス(昔は極力毎日更新していたのになぁ。最近「まぁいいや」って思ってしまう/苦笑)

>「ミニクーパー! 高校時代の先生が乗っていてとても可愛くて好きでした。 あれ、かわいいですよねぇ。……幸せになれよミニクーパー!(涙)」

 明らかに国産車とは違った雰囲気なのが気に入ってたんです。何かとカブいていたい性格でして(笑)。本当に幸せになれよ〜!


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