言の葉孝

2005年06月01日(水) ガリレオについて語る日

 明日は科学思想史のテストなので、今日は前振りもナシで勉強も兼ねてガリレオとニュートンについて纏めたいと思います。
 つまらないと思ったら、容赦なく一番下まで飛ばして下さい。

(1)ガリレオ
 ガリレオ=ガリレイは近代科学の父と言われる、十七世紀の偉大な科学者です。
 主な発見は『落体の法則』、有名な「落下速度はその重さには左右されず、真空中での落下距離が落下時間の二乗に比例する」というやつですね。どうにも後半部分が理解し難いのですが。落下距離じゃなくて落下速度じゃないんですかね、これ。
 ちなみにこの法則に付いて、ガリレオはピサの斜塔で実験を行ったとされていますが、これは後にガリレオの弟子が創作した伝説であるようです。ガリレオの説では“真空中で”という条件をつけていたことから、ピサの斜塔で行ったのでは空気抵抗によって違う結果が出てしまうことにガリレオは気が付いていたはずであるからです。
 それから『慣性の法則』、『運動合成の法則』、『投射体の経路(放物線)』、『振り子の等時性』等の発見があります。『振り子の等時性』についても、ピサ大聖堂のランプの揺れかたで気が付いたとされていますが、それもただの伝説です。何故なら危険であるという理由から、当時は既にランプが固定されていたという事実があるからです。
 そしてもう一つ有名な発見が、『木星の四つの衛星』の発見です。その他にも自作の望遠鏡を用いた『太陽の黒点』、『金星の満ち欠け』などを発見し、その結果、コペルニクスの地動説が正しいという結論に至るのです。

 これらの発見は、それまでの科学を一変させるほど画期的なものでした。それまでの科学とは要するにアリストテレスの科学です。
 アリストテレスは紀元前四世紀の哲学者で、学問の父とよばれています。それまでの学問は哲学と呼ばれて一緒にされていたのですが、その学問を分類し、体系付けたのです。現在で言うところの自然科学、人文科学、社会科学は全てこのアリストテレスによって体系付けられたものです。
 それほどに偉大だったアリストテレスの世界観は『目的論』と呼ばれ、「全ての物事はある目的をもち、その達成に向かっている」とするものです。
 ガリレオの『落体の法則』、物理学における発見は説明を見て分かるように“数式で表せる法則”です。つまりアリストテレスの『目的論的自然観』を覆す、『機械論的自然観』が確立され、それによって科学諸分野が発展し17世紀科学革命が始まったのです。

 また、天文学における発見はアリストテレスの宇宙論を否定することにもなりました。アリストテレスは、地球を中心に、幾つもの天球がたまねぎのように重なっているものだと考えられていました。しかし太陽信仰を持っていたコペルニクスは、太陽こそが宇宙の中心に相応しい、とそれを否定する地動説を打ち出し、ガリレオも自らの研究によってそれを肯定しました。
 そこから、起こったのが超有名なガリレオ裁判です。

 ガリレオ裁判は計二回行われ、その第一回目の発端となったのはドミニコ修道会士ロリーニとの地動説を巡る論争からでした。ロリーニはガリレオの唱える地動説が異端であるとして、異端審問所に訴えでました。その根拠は旧約聖書ヨシュア記第十章一二節から十三節にかけて、書かれているこの文です。

「ヨシュアはイスラエルの人々の前で主に向かって言った。
『日よ、ギベオンの上にとどまれ』
『月よ、アヤロンの谷にやすらえ』
 民がその敵を撃ち破るまで、
 日はとどまり、
 月は動かなかった」

 この記述をみると、日は動くものととることが出来ます。よって、当時のキリスト教徒達の中にはこの考えを受け入れられなかった人々がいたのです。
 この時、1616年の第一回の判決では、ガリレオ自身は無罪となりましたが、それでも「神や天地創造と結び付ける発言をしなければよい」、という判決であって、あまりキリスト教会に受け入れられるものではない、という事でした。この際、コペルニクスの書いた『天球の回転について』は禁書となります。

 しかし、ガリレオは地動説のみを説くだけではなく、同時に天動説も説けば良い、と考え、双方の説を持論とする二人の学者の対話を描く『天文対話』を1632年に発刊します。ですが翌年、彼はこの本のことで異端審問所に出頭するよう命じられてしまうのです。
 ガリレオは無罪となるに十分な根拠を持っていました。一つ目が第一審で無罪になった裁判記録であり、二つ目が『天文対話』を発刊する際、教会の許可を得たという事実でした。ところが、異端審問所は第一回の時は取り下げられ、正式には発効されなかったガリレオを有罪とする判決記録を取り出しました。実はこの有罪の判決記録、正式に有効であるものではないので裁判官の署名等がなく、異端審問所の規律に反するものだったのです。しかしそれでもこれを有効とし、さらに『天文対話』を許可した事実を無視し、これが時の教皇ウルバヌス8世を馬鹿にするものとする判決が出て、ガリレオは異端誓絶を強いられたのです。
 この二回目の判決の際、ガリレオは「それでも地球は動く」と言ったとされていますが、これも単なる伝説です。そんなことを本当にすれば即刻火刑台行きだったでしょうからね。

 二回目の異端審問は、前述の通りガリレオにとって非常に理不尽であり、納得の行かないものであったわけですが、これは俗に言う“科学に対する宗教の反発”からのものというわけではなかったと考えられています。
 その第一の理由として、ガリレオが敬虔なキリスト教徒であることが上げられます。聖書を言葉通りに答えるのは危険であるとし、自然科学によって証明された法則に、聖書の章句一つで反乱するべきではない、とガリレオは自分がキリスト教徒として何ら間違ったことはしていないと供述しています。
 また、第二の理由としてガリレオと、二回目の裁判の際、馬鹿にしているとされたウルバヌス8世は、もともとガリレオの親友、もしくは支持者として親しく付き合う関係でありました。それにもかかわらず、ウルバヌス8世が彼を養護しなかった理由に付いて、幾つか推論がたてられています。

推論1 異端審問所の言う通り、『天文対話』で自分が馬鹿にされていると感じたため、激怒した。
推論2 ガリレオはトスカナ大公国、ひいてはメディチ家に仕えており、そしてローマ教会はメディチ家が支持するスペインのハプスブルグ家と相対するフランスのブルボン家を支持していた。(この頃、ヨーロッパ、ドイツを中心とした『三十年戦争』が行われていた)
 つまりウルバヌス8世は国際政治上敵勢力となるガリレオを養護することが出来なかった。
推論3 教会内政治において、革新的であるガリレオを拒絶することにより保守派の取込みを図った。

 どれにしろ、この裁判はあまり純粋な意味で科学VSキリスト教ではなかったわけです。それから、ガリレオの主張は、彼の死後長く経っても認められることはありませんでした。
 そして驚くことに、疑問だらけのガリレオ裁判が間違いであったと認め、時の教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオに対し謝罪したのは1992年、ガリレオの死後359年後のことだったのです。

 こういった事情で、17世紀において科学は教会に拒絶される形となり、「ローマ教会は科学の弾圧者」というイメージが出来てしまいましたが、当時ガリレオの科学を支持する幹部達は多数いました。前述のとおり、そのトップである教皇・ウルバヌス8世もそのひとりです。言わばガリレオ裁判は単なるローマ教会の失政。
 このことが示しているのは教会側から見ても、科学者側から見ても、ガリレオの主張したとおり、科学と宗教が対立することなどないということなのです。




 ニュートン編は明日やります。今日はもうキツいんで。
 ウルバヌス8世との確執を焦点にガリレオの伝記小説かいたら面白くなりそうですね。もう誰かやってるかも知れないですけど。

web拍手レス

>「まほゆめvo3は書き直し・・?」

 はい、残念ながら書き直しです。
 とはいえ、文章は結構残っています。え? 何でかって……講義中に紙に書いた分が残っていたからですよ?(←ちょっと待て)

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