呪縛の蝋
10
図書館での調べ物を終えるころには、太陽も西に沈みかけ、空を赤く染め上げていた。
「ごめんねー、つき合わせて。図書館とかつまんなくなかったー?」 「……そういう気遣いができるとは意外だわ……」
どことなく、朴念仁的な雰囲気を持っている千鶴だ。自分の世界に没頭している間は、一緒にいる人への配慮などないのだと思っていた。雛子名義で借りてきた本(住人でない千鶴には借りられなかった)も全部千鶴が持っている。
「失礼なー。僕だって、女の子に優しくするくらいできるよー?」 「……別に、つまんなくはなかったわよ。心配しなくても」
あれからずっと、本を読んでいた。伊戸部礼二が読んだ本。蝋人形の本。イタリアの本。 知らないことでいっぱいだった。そしていろいろなことを知った。イタリアの本を読んでいる間、雛子は図書館ではなく、イタリア中を旅行していたのだ。本などほとんど読んだことはなかった雛子だったが、進んであんなに分厚い本を読む人のことが少しわかった気がする。 これからは少しずつ本を読んでみよう。
今日はもうどこにも行くことはないというので、千鶴と雛子は三沢家に戻ってきた。夕食を済ませた後、雛子の部屋に上がり、図書館で借りてきた本を読む。
「……って、何であたしの部屋なのよ」
やや乱暴に麦茶の入ったグラスを、千鶴の前に置きながら言った。
「だって、なんか教授は何か研究してるみたいで邪魔できないし、かといってリビングに残るのも君の両親の目に付いて困るでしょうー?」
カラカラと氷を鳴らしながら答える千鶴。今度はちゃんと麦茶に氷が入っているところを見ると、少しは雛子の千鶴に対する評価は変わってきているらしい。 千鶴は、今は村の資料と地図を見比べていた。図書館でとってきたコピーに白灯村のホームページ(その存在を雛子は知らなかった)をプリントした資料と照らし合わせては何かを書き込んでいる。
「……大体はわかったみたいね」 「んー、まぁねー」 「明日にはわかりそうなの?」 「んー、多分ねー、でも肝心なところが詰められないー」
確かに、先ほどまでは頻繁に地図のコピーにペンを入れていたのだが、今握られたペンはくるりくるりと彼の指の上で踊っているだけだ。体も落ち着きなく動かされている。
「……ひょっとして焦ってるの?」 「もしかしなくても焦ってるよー」
雛子に指摘された千鶴が苦笑して答えた。いつも間延びした口調で、焦ることなど一切なさそうな彼が焦っていることを認め、雛子はへえ、と感嘆の声を漏らす。
「でも、どうしていつもそんな間の抜けた話し方をしてるの?」 「もともとは早口だったんだよー」
幼い頃から本をよく読み、語彙の多かった千鶴は、それだけたくさん話し、その早口と言葉に乗せられた情報量の多さから「もっとゆっくり話しなさい」と注意されてきた。そして、その早口に見合うだけのせっかちな性格だった。おまけになまじ頭がよかったものだから、完璧主義まで身についてしまったものだ。
ある日、数学の課題にあった問題で手間取った。いつもどおり誰よりも早く終わらせようと、配られた瞬間から手をつけたはいいものの、ある問題に引っかかってしまい、これに悩んでいる間にどんどん他の生徒が課題を提出していく。 提出期限前夜になっても、さっぱり解けない。何度か無理やりやり方を変えてみてもなかなかうまくいかなかった。徹夜で考えた挙句、次の日は高熱を出して寝込んでしまった。 徹夜をした理由を聞いた千鶴の母親は「それならそこは先生に聞くか、何も書かないまま出せばよかったじゃない」と言った。 それはとんでもない提案だった。真面目で完璧主義者だった千鶴にはわからないまま提出することも、先生や他の生徒に聞くのも、その問題に負けたようで嫌だったのだ。
この数学の問題の件を抜いても、四六時中何かをしており、気を張りっぱなしで生きてきた千鶴はそのツケを時々支払わされるような形で熱を出して寝込んでいた。おそらくこれは根を詰めやすい性分であった千鶴の肉体が、精神的に限界を迎える前に強制的に休息を取らせる自己防衛機能のようなものだったのだろう。 ともかく、そういったことでかなり限界を感じていた千鶴は少し気楽にいられる生き方を検討し始めた。これでさえ一生懸命取り組もうというのは本末転倒だったかもしれないが。
しかし心にどう余裕を持とうとしても、中々今までの生き方が変えられない。どうしたものかと母親に相談すると、「まずはゆっくり喋ることにしたら?」と、助言してくれたのだ。 気が急くのはどうも制御できないが、それならできそうだと思い、実際にやってみると、思いのほかうまくいった。始めは言いたいことがたくさんあるのに、なかなか喋れなくてもどかしい思いもしたが、それに慣れてくると、本当に自分の言いたいことだけを選別し、簡潔にまとめられるようになった。 同じように行動も本当にやりたいこと、やる必要のあることだけを抑えていれば、何の支障もなく生活できることがわかり、時間と気持ちに余裕が生まれたのである。
「それが身に付いたあとははもう、楽で楽でー」
あっはっは、と実に晴れやかな笑みを浮かべる千鶴である。
「想像が付かないわ……」
この、ほにゃらら男が、完璧主義だったなどとは。
「あはは、それは分かるけどさー、今でも何かやるときは結構根を詰めたりして大変なんだよー。これから卒論もあるしさー」 「へえ……で、今は何で引っかかってるわけ?」 「うん、ここなんだけどねー」と、千鶴は再び地図のほうに目を落とす。話がすこし脇道にそれたのがよい影響を及ぼしたのか、地図へ取り組むときの雰囲気がいくらか和らいでいる。
「川のことでちょっと腑に落ちないところがあってさー」
旧白灯村にはその盆地を突っ切るように、小川が五本流れている。それが村の出入り口あたりで合流し、白灯川となっているわけだが、千鶴が地図を見る限りもう一本、川が流れていそうな地形があったのである。
「ここなんだけどさー」と、とんとん、と千鶴が指し示したのは村の北端あたりだった。
千鶴は登山部に入っている関係上、地図を読むのに長けている。小さな谷状をした筋が、村を回りこむように走っている。だが、そこには川の表記はなく、村の情報からも、この六本目の川の名前はなくそして、千鶴が最初来たとき、上から見た景観でも川は五本しか見えなかった。
「僕が今探しているのは攫われた六人の遺体の隠し場所なんだー」
千鶴は初めて“遺体”という言葉を使ったが、雛子は別段驚いた様子は見せなかった。六人もの人間と男一人、それら全部が全部、警察の目を逃れて今まで暮らしているとは到底思えない。
「で、いろいろ条件を考えてみたんだけど、その条件に合うのがここなんだよ」
今度示されたのは、その“川ならざる川”の一部、地図からしてかなりの急勾配で、実際崖になっているであろう場所だ。
「ただ、ここが川でないと条件に合わないんだー」 「……川“だった”のよ。そこ」
ほとんど駄目でもともと、自分の考えを整理するためにあえて声に出していってみたくらいのつもりだった千鶴は、思わぬ雛子の言葉に、弾かれるように顔を上げた。
「どういうこと?」 「十年前、大雨が降ったときにここで土砂崩れが起きたのよ」
そのときの大雨は記録的なもので、当時村を流れていた六本の小川もこのときばかりは、水位が脅威となるほど水かさが増したらしい。そしてとうとうその一本が土砂崩れを起こすともにあふれ出したのだ。 その土砂崩れと洪水をもろにかぶったのが村の北のほうに住んでいる人々である。家は潰された上に土地が水浸し。とても立て直せる様子ではない。 よって、家を失くした者のほとんどは各地の親戚などを頼りに、村を後にしていったのである。 そして、雛子たち三沢家もその家を失くした家族のひとつだった。雛子たちの場合は、外に身寄りがあるわけでもないし、何より失踪した母方の姉・高野日奈のために地元に残らなければならなかった。 どうしたものかと途方にくれていたとき、声を掛けてきたのが、あの事件のあと、順調に博士号を獲得し、大学で民俗学を教えていた赤羽教授だった。 どのみち、一年でいくらも戻らないし、一人ですむにしても部屋はたくさん余っているから、うちに来ればいい、と。
「それ以来、オジサマは三沢家にとって恩人なのよ」 「あー、だから教授の家に君達が住んでたのかー」
その点は千鶴も気になっていたのだが、事情があるのだけはわかったので雛子達から話し出さない限り、聞かなかったのである。
「それでー? 川のほうはどうなったのー?」 「そのときの土砂崩れで川の流れが変わっちゃって、ここの一本に合流して流れるようになったの」
そして水が流れなくなった、小川は埋め立てられてしまった。そのおかげで交通の便がかなりよくなった面もあり、それはそれでよいことだったのだが。
「じゃ、三十年前の時点ではここって川だったんだー?」 「そういうことね」
かちり、自分の頭の中でパズルの最後のピースがはまる音がした。
千鶴は、ノートを開き今得た情報を書き込むと、ぱらぱらとノートを見直して情報を整理する。そして最後のページを見終わると、パシンと音をさせて閉じた。 その様子に、雛子がおずおずと千鶴の顔を覗き込んで尋ねた。
「……疑問は解けたの?」 「うん、考えることはもうないねー」
あとは事実の裏づけだけだ。
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