なか杉こうの日記
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2005年12月18日(日) 自らの知覚に

あの姉歯元建築士という人は一見、そう悪い人には見えない。たしかに「悪い」人というより、泥沼に入って抜け出る勇気と意思がなかったと言う点でやはりどこか性格的に欠陥のあった人なのだろう、と思ってしまう。

だって仮にも一級建築士でしょう、わたしなんかから見るとプロフェッショナルだし、マンションやホテルの設計の仕事がなくても、家を設計すれば仕事になるじゃないの、と思うのだが、そうではないのだろうか。少なくとも大手に使われている建築士はほんとに気の毒だというのは自分の家を建てたときの経験からなんとなくわかる。

それにしても、しろうとからみれば、大地震が起きたら崩れる住宅を建てるというのは、明らかに致死行為だ。それをすることに慣れてしまった、というのはどういうことなのだろう。てきとーにやって、悪きゃ検査する官庁が見つけてくれるでしょう、てな気持ちで始めたところが、官庁は気づかない。そうなると、なんとなく悪いことをやっているという感覚がマヒしてくるのかもしれない。

となると人はなにに根拠を置くかという話になるが、これは自らの「良心」である。こんこんこん、と自らの心に顧みて、これはいいことをやっているのだろうか、と聞いてみる。

程度の差はあれ、こんなことはありそうな気がする。見てみぬふりをすることもそうだ。じぶんにもある。「おかしいな、あんなこと。違うんじゃないの。悪いことじゃないの。」と思いながらも、誰もそういわなかったり、むしろ肯定的に受け入れられている状況のなかでは、人の感覚がおかしくなってくる。

たとえば周りが斜めに傾いていると、次第に傾いていることが正常に感じられてくる。おかしいな、おかしいな、と思いつつも、「誰も言わないし、自分の感覚がおかしいのだろう」と首を傾げつつ暮らしている。あるとき、ばーん、と事件が起こる。今まで気づきながらも無視してきたことがらが、行く筋もの糸となりつながり、事件は起こる。

人は自らの知覚に忠実でいなければならない。知覚は、よい、悪いはないのである。


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