読書記録

1998年06月27日(土) 天上の青         曽野 綾子


 ある夏の朝、波多雪子は庭先を通りかかった一人の男と知り合った。庭に咲く朝顔の種を分けてほしい、と声をかけてきたその男は、やや投げやりな性格であったが、優しい一面も見せ、時おり訪れては話をするようになっていった。だが男には別の顔があった。自らを詩人と称して次々に女性を誘い、犯し、殺しては埋めるという冷酷な人間。平凡な人妻、女子高生、デパートの店員など、手当たり次第に女性を襲い続ける男、宇野富士男。彼の衝動はとどまるところを知らず、生意気だというだけの理由で小学生の男児までも手にかけてしまう。やがて富士男は逮捕され、社会を大きく揺るがす事件の全貌が明らかになった。だが雪子は、周囲の非難を浴びながら、富士男のために弁護士を雇うのだった。

いずれにしても、宇野富士男にせよ、波多雪子にせよ、普通の生活の中ではなかなかお目にかかれないような極端な人間である。その意味では、ここには色に例えれば、黒と白の対立が示され、多少大げさな言葉を使えば、獣性と聖性の対立、悪魔と天使の対立が示されていると言えるかもしれない。従ってその対立は、観念的と言ってもいいかもしれない。しかし観念的だから非現実的ということにはならない。そんなことを言ったら、ドストエフスキーも観念的で、非現実的ということになってしまう。
それでは、その対立によって作者は何を語ろうとしたのか。それに対しては、この対立が示す以上のことは語っていない、と言うしかない。人生の両端に杭を一本ずつ打ちこんで、その間にあるのが人生であり現実であり、それを黙って受け入れるしかない、と言っているのかもしれない。
現実とは、もともと不正で不当で、残酷で理不尽なものである。宇野富士男の悪業ごときに今更あわてふためき、驚き呆れることもないのである。その悪業も、反省や贖罪によってバランスを取れると言ったものではない。また、さらに大きい高みで、神がすべて承知で釣り合いを取ってくれているというのでもない。もし神がいても、神は現世の不当を、来世で帳尻を合わせたりはしない。平然と不当不正を行うのが神であり、それを黙って耐えるのが、生きるということである。


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