綿霧岩
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2016年11月12日(土) |
どこで書いているのか |
好きだなあと思う文章を読んでいて思った。 私は何をいいと思ったかって、何が書かれているかじゃなくて、書き手の人がどこで書いているのかだ。 どこでっていうのは、まあ部屋でも屋外でもどこだって構わないんだけれど、そういう身体のある場所のことではなくて、心のいる場所という意味です。 それが良ければ、具体的な中身の種類は私にとっては問題じゃない。 それが良ければ、中身が何であったとしてもおそらく面白いんだ!と思った。 逆にそれが面白くなければ、同じような内容が書かれてあっても、その文章を私はいいと思わないだろう。
いやあの、 心の場所なんて人様様々であって、良いも悪いもないです。 誰がどんな心の場所にいようが自由であるし、別にどうでもいい。 言いたいのはそういうことではなくて、んー、
なんか私は、ああその場所いいね!って思う場所があって、それって結局その人がその人だけの核心みたいなものに触れているときにいる場所なんじゃないかなあと思います。
その人だけの核心って、言うのは簡単だけど実際探すとなったらイメージなんかなかなかできないものです。 だけど、人の文章って、それが、すぐわかる。 書いた人が、そのとき、どこにいたのかが文章を読んだらわかる。 それってなんかすごくないですか。 何がすごいのだろう。 言葉というものがすごいのかな。 言葉って案外、ものすごいものなのかもしれないです。 なんていうか、見えないものの鏡、みたいな。
私は本を読むのがわりと好きな癖に、結構言葉に対して冷たいところがあるので、今ちょっと言葉を見直しました。 ふふふ。 偉そうに!
心のいる場所。 心の立ち位置というのかな。 社会的な立ち位置なんかではないよ。 心の視点? いや私の感覚ではそれは視覚だけではなくて、全身の感覚です。 心の全身がどこにあるのかです。
そしてそして、それって思えば全部に通じるなと思ったのでした。 文章のことだけではなくて。 演技だって歌だって料理だって、もっと言えば何でもない日常の中の、例えば挨拶とか、言葉さえ交わす以前のその人が醸し出す空気とか。
だから私は思いました。 何をするのかとか何を言うのかではなくて、どこにいるのかが大事だって(心がね)。 己の何かを研ぎ澄ませたいのなら、そこをこそだよ!と。
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