2021年09月05日(日) |
誰のためにも書かない。 |
同僚が重そうな紙袋をいくつも抱えて出勤したと思ったら、ハイと私に差し出した。
中には漫画の単行本がどっさり。彼女は最近、これを大人買いしたという。
せっかくの夏季休暇にどこにも行けない、誰にも会えない。ならばステイホームを堪能しようと、中学生の頃に夢中になった漫画を読みふけったらしい。それを「蓮見さんももうすぐ夏休みでしょ」とわざわざ持ってきてくれたのだ。
彼女と私は同世代。その漫画は私にとっても懐かしい。最後に読んだのは三十年以上前のこと、結末はどうなったんだろう。
と一番後ろの一冊を取り出し、表紙を見て驚いた。私の記憶にある絵とずいぶん違っていたからだ。
ちょっと暑苦しいくらい濃かった主人公の顔が、四十九巻ではいまどきのそれになっている。ほかの登場人物も洗練されて都会的な容貌になっていた。
絵はきれいになったけれど、なんだかイメージが違う……。いやしかし、連載開始から四十五年も経っていれば、絵が変わるのは当然か。
休載が多くいまだに完結していないため、「作者はもう描く気がなく、いまはアシスタントが描いている」という噂がまことしやかに流れているが、絵柄ががらりと変わったことも一因かもしれない。
ところで長くつづいているといえば、この日記もかなりの長期連載である。
二〇〇〇年にスタートし、途中七年間のブランクはあるものの、その期間以外はコンスタントに更新してきた。
過去ログは千百超。これだけ書いていると、漫画の絵柄と同じようにだんだん変化していく要素もある。
先日、これまでに書いたテキストのタイトル一覧を眺めていて、ふと気がついた。
「そういえば、愛だの恋だのの話をめっきり書かなくなったなあ」
以前は自分の過去の恋愛や「男と女」について書くことがしばしばあったが、少なくともここ十年はない。そういうテーマに食指が動かなくなったことが大きいが、理由はそれだけでもない。
あるとき、テキストサイトのお祭り企画に参加するため、遠い記憶を掘り起こしてその手の話を投稿した。出来は悪くなかった。にもかかわらず読み返そうという気にまったくならなかったのは、「自分らしくない」文章だったからだ。
二十年前の私が書いたのであれば、そんなふうには感じなかっただろう。そして、思った。
「体型が変わっていないからといって、ハタチの頃に着ていた服を四十代になっても着ていたら、やっぱり不自然だ」
時を経れば、生活も立場も関心の対象も変わる。「これについて書きたい」「書いていて楽しかった」と思えるものがいまの自分に見合った話題なんだろう。
そんなふうに変化したものがある一方で、十四年間揺るがないものもある。「自分のためだけに書く」というポリシーだ。
「人の役に立つ文章を書きたい」
「読者の心に響く言葉を届けたい」
「私のエッセイで誰かを笑顔にしたい」
自己紹介や初めましての投稿でよく見かける一文であるが、私はそういうことを考えたことがない。むしろ、「誰のためにも書かない」よう心がけてきた。
「人に読ませる文章であること」は常に意識している。“自分語り”を読んでもらうためには、「これは自分用ではなく、人に読んでもらう文章なのだ」を念頭に置いて、話題を選択したり感情を抑制したりすることが必要だと思っているから。でも、それは「読み手のために書く」とは別物だ。
共感を得たい、期待に応えようという気持ちがモチベーションになる人もいるだろう。でも私がそれを狙ったら、文章におもねりや計算が生まれ、書きたいように書けないジレンマに陥るのが目に見えている。
だから、きっとこれからも誰のためにも書かない。
「自分が納得のいく文章を書きたい」
動機が“自分の中”にあるからこそ、私は今日もこうして、そして明日もここにいられるのだと思う。
【あとがき】 こんな私の文章を読んでくれる方に、心からありがとうと言いたい。 さて、長期連載している漫画の絵が変化するのは、描いているうちに絵が上手になっていくからだと思っていたのですが、それだけではないようです。漫画好きの友人によると、絵柄が古いと新しい読者がつかないため、その時代の流行りの絵柄に寄せていく必要があるのだそうです。なるほど。 |