その日、職場の休憩室は石橋貴明さんと鈴木保奈美さんの離婚の話題で持ちきりだった。
若い同僚がネットニュースを読みながら「へえ、この二人、もともと不倫だったんですね」と言ったものだから、ここぞとばかりにアラフォー、アラフィフ世代によるレクチャーがはじまった。
「あのね、タカさんは前の奥さんと離婚して二週間で鈴木保奈美と再婚したの。そのとき保奈美は妊娠三か月。“略奪婚”“できちゃった再婚”って騒がれたんだから」
「不倫が理由だと慰謝料がっぽり取られるから、タカさんは鈴木保奈美とのことを隠したまま離婚を迫ったんだよね。だから奥さんと子どもは報道で再婚を知って、ショック受けて」
「それで堂々と結婚会見したり式を挙げたりしたんだから。いまの時代だったら考えられないことだよ」
食事中のおしゃべりはご法度。よって、みなより遅れて昼休憩に入った私はもっぱら聞き役だったのであるが、二十三年前のワイドショーネタが次から次へと出てくるのには驚いた。
さて、話を聞きながらへええと思ったことがあった。彼女たちが二人の「離婚」という選択に憤慨していたことである。
そういう経緯だから、結婚時に二人が批判されるのはわかる。しかし、離婚時にも非難されるとはこれいかに。
「自分に子どもができたからって、よその子どものお父さんを取り上げておいて、いらなくなったらリリースってどれだけ身勝手なの」
「奥さんと子どもを傷つけてまで手に入れた男なんだから、意地でも添い遂げてもらいたかったわ。その覚悟もなく、人の家庭を壊したわけ」
つまり、「自分たちがしたことの責任を取って、なにがあろうと“夫婦”をまっとうしなさいよ。それが贖罪ってもんじゃないの」という言い分だ。この離婚は鈴木さんが切りだしたと誰もが思っているため、これは鈴木さんに向けられた言葉である。
同僚も病院を一歩出れば、妻であり母親。自分が前妻の立場だったらと想像したら、「別れるなんてありなのか」と声をあげたくなるのもわかる。
そう言われれば、なるほど、今回のニュースを聞いて前妻ははらわたが煮えくり返っているかもしれない。
……が、そのことはちょっと横に置いておき。
私は二人が離婚を発表した『貴ちゃんねるず』を見たとき、まったく別のことを考えた。「鈴木さんがうらやましい」と思った女性は多いだろうなあ、ということだ。
真顔の石橋さんの隣で、鈴木さんは実にうれしそうだった。二人の表情を比べれば、どちらからそれを申し出たのか、どちらのほうがこの選択に満足しているかは明らかである。
妻業、嫁業にうんざりしている女性が見たら、「私も自由になりたい」と思ったにちがいない。
「いままでずっと自分のことは後回しで夫、子ども優先でやってきた。人生は一度きり、これからは自分の時間を持ち、したいことをしてもいいんじゃないか」
母親としての務めを果たした女性がそう考えるのはもっともなことだ。そしてそのとき、夫には愛情も家族としての情もない、コミュニケーションもない、感謝されているという実感もないとなれば、この先も一緒にいる積極的な理由を見いだすことはむずかしい。「夫婦」という関係を清算することが頭をよぎるだろう。
しかしながら、実際に行動に移せる人がどれだけいるか。
鈴木さんが三億円はくだらないといわれるマンションを現金で購入していたという報道に、「私には見果てぬ夢ね……」と苦笑しながら、昨日と同じ場所に戻っていく人が大半ではないだろうか。
結婚が「永久就職」とも呼ばれていた頃があった。
いま思えば、こんな怖いことはない。どんな“勤め先”かわからないのに、永久だなんて。途中でなにが起こるかわからないのに、片道切符だなんて。
しかし、「ひとつの会社で定年まで勤め上げる」という働き方がいまはむかしであるように、結婚についても「添い遂げる」のが美徳とされる時代ではもはやないだろう。
以前、私は「悔いのない結婚をするために」というテキストの中でこう書いた。
結婚が人がより幸せになるためのものであるように、離婚もまた前向きに生きていくための人生の選択だ。 (中略)平穏な暮らしの中にあっても、女性がいざというときには自立できるすべをキープしておくことはとても大切だとつくづく思う。 (中略)離婚に至るリスクを下げようと結婚前に相手との相性を探ることより、今日の安泰にあぐらをかかず、“有事”に対処できる筋力を保持しておくこと------ブランクがあっても再就職できる資格を持つ、コツコツお金を貯める、健康に気をつける、実家や友人との関係を大事にする、など------のほうがよほど、結婚を悔いのないものにしてくれる気がする。
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最後の一文の中の「結婚」は、「人生」という語に置き換えることができる。
「オールドミス」や「出戻り」という言葉が聞かれなくなって久しい。結婚してもしなくても、子どもを生んでも生まなくてもいい時代になってきた。離婚しても、かつてのように「人間性に問題があるのでは……」という目で見られることはない。
子どもにも、自分が望む人生を選択できる人になってほしいと願っている。