誰かの話にふんふんと相槌を打とうとして、急ブレーキを踏むことがある。相手がさらりと口にしたことの中に、自分の感覚や常識との相違を感じたときだ。
相手はこちらがそんなところにひっかかりを覚えたとは思いもせず、話をつづけている。しかし、私は心の中でその違和感の正体を探らずにいられない。
先日あるエッセイを読んでいて、そういうことがあった。まず、こちらのテキストをお読みいただきたい。
「読んだけど、これがどうかした?」という方は逆に、これから私が書く文章に違和感を覚えるのかもしれない。
上記は女優の鈴木保奈美さんの初エッセイ集『獅子座、A型、丙午。』に収められた一話である。中学生の娘が友人数人と花火大会に出かけたら大雨に降られ、会場近くの友人宅に避難した。その家のママが着替えとビーチサンダルを貸してくれ、「服は洗濯しておいてあげる」と言ってくれたため、娘は濡れた服と靴を置いて帰宅した。しかし夏休みが終わり、戻ってきた靴にはシミとカビが生えていた。お気に入りのスニーカーが二度と履けなくなってしまったと号泣する娘を責めず叱らず、冷静に諭すことができた。母になって十八年目、われながら成長したものだ、という内容だ。
エッセイは軽快な口調でユーモラスに書かれている。鈴木さんの「母の顔」を垣間見て、親しみも感じる。しかしながら、その千二百字余りの短い文章の中に気になる点がいくつもあった。
ベランダでなにやらゴソゴソやっていた末の娘が、真っ赤に泣きはらした目をして部屋に入ってきた。お気に入りの、ナイキのスニーカーがぐちゃぐちゃになってしまった、というのだ。
|
という冒頭のくだり。そして、その靴が夏休み明けに友人宅から戻ってきた場面につづく。
雷雨騒ぎのさなかにあまりにもビチャビチャで、とりあえずビニール袋に入れて丸めて何気なくお友達宅の玄関の隅にでも置かれていたのであろうスニーカーも、そのままの保存状態で戻ってきたのである。そりゃあ、どれだけ悲惨な状態になっているか見なくても想像がつく。ていうか見たくない。
|
「ぐちゃぐちゃになってしまった」「そのままの保存状態で戻ってきたのである」「ていうか見たくない」という表現には、意図的かそうでないかはわからないが、鈴木さんの正直な気持ちが表れていると感じる。
鈴木さんは「落胆と怒りでなかばパニックになっている」娘に、そのママの親切に感謝しなくてはならないと言って聞かせている。「お友達もお友達のママもちっとも悪くない。」と。しかし当の鈴木さんの中に、「干しておいてくれたら、こんなことにはならなかったのに……」という思いは一ミリたりともなかったのだろうか。まったくなくてこういう文章になるだろうか、と私は考えずにいられない。
「預かってもらってたスニーカー、濡れたまま保存されてたものだからシミとカビでぐちゃぐちゃになってたの。私と渋谷まで買いに行ったお気に入りの靴だったから、娘が大泣きしちゃってね」
と面と向かって言おうとしたら、かなり勇気がいるのではないだろうか。私にはけっこうな恨みごとのように聞こえるのだけれど。
そのママがこのエッセイを読んだらどう思うかについて、鈴木さんがまるで気に留めていないように見えるのがとても不思議だ。びしょ濡れの女の子たちを家に上げ、菓子や果物を出し、雨の中大変だろうからと手ぶらで帰らせてくれた優しいママである。「靴も洗っておいてもらえると思わせちゃったのかな……。かわいそうなことをした」とすまなく思うかもしれない。負う必要のない責任を感じさせてしまう可能性を考えたら、私にはこんなふうには書けない。
もうひとつ、わからないことがある。鈴木さんは娘にこう語りかける。
こんなに辛い思いをしたら、もう二度と同じ過ちを犯すことはないでしょう。それが反省するっていうことです。
|
しかし、鈴木さんが娘のなにを「過ち」とし、反省しなさいと言っているのか、私には読み取ることができなかった。
それほど大切な靴をすみやかに取りに行かず、結果的に履けなくしてしまったことだろうか。そうであるなら、私はこれはむしろ親の落ち度だと思う。
「夏休みが終わり、預けたお洋服が洗濯されて戻ってきた。」という一文から、かなりの期間預けっぱなしにしていたことが窺える。どうやって戻ってきたのかも気になるところだ。鈴木さんは「とりあえずビニール袋に入れて丸めて何気なくお友達宅の玄関の隅にでも置かれていたのであろう」とあっさり言うが、濡れた靴は不衛生だし、玄関が湿っぽくなってうっとうしい。出入りの際の邪魔にもなる。そういう迷惑をかけていることに中学生は気づけないかもしれないけれど、大人もそれでは困る。取り急ぎ電話でお礼を伝えたら、後日できるだけ早く娘とともに服と靴を取りに伺うものだろう。
……と私は思っているのだが、自分の常識はときに他人の非常識。あなたならどうするかと職場で何人かに尋ねてみたところ、やはり菓子折りを持ってすぐお礼に行くと返ってきた。
鈴木さんと同年代の同僚は言う。
「靴を濡れたままにしてたのはわざとだよ。ちっとも取りに来ず、借りたものも返さないから、頭にきたんだよ」
えー、こんなよくできたママがそんなことするかなと言ったら、それだけ気のつくママだからこそそのままにしておいたのはおかしい、と主張する。たしかに、洗うことまではしなくてもせめて乾かしておこうとは私も考えるだろう。あえて「干さない」ことで無言のメッセージを送っているのだ、という分析にはなかなか説得力があった。
すぐに取りに行った靴を娘がいつまでも放置してそうなったのなら、「反省しなさい」はわかる。けれど、今回の場合は親のほうに足りないものがあったのではないか。
とまああれこれ書いたが、どちらが正しい、間違っていると言いたいのではない。
「常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである」
とアインシュタインは言った。子どもは親から常識や価値観、道徳観といったものをインストールし、それが彼らの“ものさし”になることを考えると、私は自分の中にあるそれらが独りよがりでなく世間で通用するものかどうか、ときどき“点検”しなくてはなと思う。
そして、古くて使いものにならなくなっていたり不具合に気づいたりしたら、ちゃんとアップデートしたい。恥を掻いたり後ろ指を差されたりするのは、自分だけではないから。
出典 : 鈴木保奈美. “母、18年目。まだまだ、道半ば”. 婦人公論.jp. 2020-12-28. https://fujinkoron.jp/articles/-/2924, (参照2021-02-10)
|