出掛けた先で、元同僚とばったり会った。同年代の彼女はいま別の職場で働いている。
「そっちはどう?」「退職者続出で、もう悲惨やで」といった話から、彼女が職場で出されているという“宿題”の話になった。
「来週までに願いごとを百個書いて提出せなあかんのやけど、ぜんぜん埋まらんねん。一緒に考えてよ」
と言う。願いごと?なあにそれ。
「ほら、いっとき流行ったやん。自分の夢とか目標を百個紙に書きだして、毎日眺めて実現するっていうやつ。メンタルマネジメントの研修で使うらしいねんけど、まだまだ足りんくて困ってるねん」
ああ、それなら聞いたことがある。「やりたいことリスト」とか「ウィッシュリスト」とかいうあれでしょ。でも、「毎日眺めることで実現」というものではたぶんないと思うけど……。
それはともかく、いまどのくらい書けているのかと訊いたところ、用紙の右半分が白紙の状態とのこと。年末から暇さえあれば考えているのだが、もうなにも浮かばないそうだ。
見せてもらったら、最初のほうこそ、なにがしたい、あれが食べたい、どこそこに行きたい、が並んでいたが、三十を超えたあたりから苦心の跡が見えてきた。
「USJの〇〇に乗る」「USJの△△に乗る」「USJの□□に乗る」といったシリーズものが増えてきたほか、「PTA役員をまぬがれる」「主任が異動する」「夫の給料が上がる」「近所にいい歯医者ができる」といった、文字通り「願う」ことしかできそうにない願いごとがずらり。PTA役員はくじ引きだし、職場の人事異動や夫の給料は上が決める。閉店したうどん屋の跡地に入るテナントに関与することもできない。やりたいことリストの目的は「書きだすことで自分のwishを明確にし、意識づけすることで実現に向けた行動に結びつける」であろうから、自分ではコントロール不可能なものを挙げても意味がないような気がするけど……。
「ええねんええねん、とにかく埋められれば」だそうだ。
願いはどんな小さなことでもよく、実現の可能性の有無も気にしなくてよいという。そこで彼女と別れたあと、帰りの電車の中で私も考えてみた。
が、家に着くまでに思い浮かんだのは十数個。いつしかあきらめてしまった夢や見失っていた目標を思い出すかもしれない、とその夜も皿を洗いながら、湯船に浸かりながら、布団に横になりながら心の中の洗い出し作業をしてみたのだけれど、結局リストアップできたwishは五十に遠く及ばなかった。そして、ふと思った。
「自分が本当に叶えたいと思っていることなら、ぱっと思い浮かぶはず。苦労してやっとこさ集めてきたそれは、“本物”なんだろうか」
ひと昔前のドラマや漫画では、受験生の部屋の壁には決まって「必勝!」と書かれた紙が貼ってあった。願いや思いを可視化することでモチベーションが高まるというのはたしかにありそうだ。しかし、それは用紙の五十個目や六十個目に記入されたwishにもあてはまるのだろうか。
正月に箱根駅伝を見ていたら、「子どもの頃の文集に『夢は箱根を走ること』と書きました」と実況されていた選手がいた。彼は先生に「さあ、『将来の夢』について書きましょう」と言われたとき、原稿用紙を前に「ああ、なにを書こう」と頭を抱え、悩んだ末に「箱根駅伝の選手」と書いたわけではないと思う。作文に書かずにいられないほど、そのころから「本気」だったのだ。
私は以前、サッカー選手の本田圭佑さんの小学校の卒業文集を読み、驚愕したことがある。
「将来の夢」
ぼくは大人になったら 世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。 世界一になるには 世界一練習しないとダメだ。 だから 今 ぼくはガンバッている。今はヘタだけれどガンバッて 必ず世界一になる。 そして 世界一になったら 大金持ちになって親孝行する。 Wカップで有名になって ぼくは外国から呼ばれて ヨーロッパのセリエAに入団します。そしてレギュラーになって 10番で活躍します。一年間の給料は40億円はほしいです。プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り 世界中の人がこのぼくが作ったスパイクやジャンバーを買って行ってくれることを夢みている。 一方 世界中のみんなが注目し 世界中で一番さわぐ 4年に一度のWカップに出場します。セリエAで活躍しているぼくは 日本に帰り ミーティングをし 10番をもらってチームの看板です。ブラジルと決勝戦をし 2対1でブラジルを破りたいです。この得点も兄と力を合わせ 世界の強ごうをうまくかわし いいパスをだし合って得点を入れることが ぼくの夢です。
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衝撃を受けたのは、「ぼくは大人になったら 世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。」という一文。
「なりたい」ではなく、「なる」。「ぜったいになってみせる」という強い意志があらわれている。
この「本気」こそが行動を生むのだ。だとすれば、乾いた雑巾を絞るようにしてwishをかき集めてくることにどんな意味があるのだろうと思えてくる。
願いは、自分の力で叶えるもの。力とは、「行動」だ。
私が大学を選んだ経緯を話したら、たいていの人がひえーとのけぞる。好きになった人を追いかけたのだ(下記過去ログ参照)。
相手はクラスの男の子や部活の先輩といった現実の知り合いではない。高校三年のとき、視聴者参加のテレビ番組に出場していた大学生にひと目惚れしたのである。箱根駅伝を見ていて、選手に恋をしたようなものだ。
「この人に会いに行こう」
わかっているのは、名前と大学と学部、なんのサークルに入っているかだけ。電話帳を見て同じ苗字の家に片っ端から電話をかけたり、大学の門の前で待ち伏せしたりすれば、手っ取り早く会えただろう。しかし、私の望みは「ファンです」と伝え、握手をしてもらうことではない。正攻法で知り合う必要があると思った私は、まず後輩になろうと決めた。だから、推薦で決まっていた大学を蹴って受験勉強を再開し、親の反対を押し切ってその大学に入学。そして、同じサークルに入った。
計算外のことがあり、“再会”を果たすまでに二年かかったが、そのときその人は私に言った。
「気づいてるか?いま、この瞬間があるのはラッキーやったからやない。おまえがつくりだしたんやで。それはすごいことやと俺は思う。ようここまで来てくれた」
それを聞いて私は気づいた。自分の願いを叶えられるのは自分自身だけなのだ、というシンプルなことに。
以来、私の中には「願いを叶えるも叶えないも自分次第。本気で望むなら、行動せよ」という揺るぎないものがある。こうと決めたら、どうしたら達成できるかを必死で考え、あとは「選んだ道が最良の道」と信じて前に進むだけ。
誰に笑われたってあきれられたって、かまわない。いつか、不本意な一生だったと振り返らねばならないことほど怖いことはない。
私の人生の舵を取るのは私だ。
【参照過去ログ】 2007年2月27日付 「自力本願」
【あとがき】 イチロー選手や石川遼さんも卒業文集に書いていますね。本田選手と同じように、いついつまでにこんな結果を残す、と具体的な数字を挙げて将来のビジョンを記しています。 当時、本田少年の作文を読んだ多くの大人が「ハハハ、夢はこのくらい大きく持ったほうがいいぞ」と読み流したでしょうけど、本田選手はそれを行動(努力)でひとつひとつ実現してきた。本当にすごいと思います。 ……で、私の「やりたいことリスト」はどうなったのかって?えーとですね、私の場合は願いを可視化しようとしまいと、それが本物ならじっとしてはいないので(行動を起こさないということは、そこまで真剣に望んでいないということ)、やりたいことリストより「やるべきことリスト」をつくって、ガシガシ消し込みしていくほうが性に合っている気がします。 |