「東京の電車ってなんでこんなにわかりづらいんだ!」
とぼやきながら、駅で路線図とにらめっこしていたときのこと。背後から賑やかな声が聞こえてきた。
振り返ると、大学生と思しき人たちが待ち合わせをしているらしい。ひさしぶりに顔を合わせるのか、誰かが合流するたび男も女もなく抱き合い、盛り上がっているのだった。
その様子を私は興味深く眺めた。たとえどんなに懐かしくてもうれしくても、友人相手に私がこういう反応をすることはない。
「テンション高いなあ。若いもんなあー」
が、そうつぶやいてすぐ、「いや、若いかどうかは関係ないか」と思い直した。
あるオフ会の席で、「ハグ」の話題が出たことがある。参加者五人のうち三人が「友人や仲間と日常的にハグをする」と答えたのであるが、その人たちは三十代、四十代だった。
過半数が“ハガー”ゆえに別れ際にはおのずとハグということになったのだけれど、私にとってはファーストキスならぬファーストハグ。ロボットのようにぎこちなかったに違いない。
私自身はハグにはなじみがない。照れくさいしそういうキャラクターでもないので、したいと思わない。けれども、それを「いいもんだよ」と言う人がいても不思議に思うことはない。
しかしながら、最近私には理解がむずかしい種類のハグが流行しているようだ。
梅田を歩いていたら、「FREE HUGS」と書かれたボードを持って立っている人たちを見かけた。
友人が「フリーフグ……ってなに?」と言い、「それを言うならハグやろ」と答えたものの、私にもなんのことかわからない。彼らはなにを呼びかけるでもなく、ただボードを掲げて立っているだけ。道行く人も素通りだ。
「無料のハグ?」
「ご自由にハグをどうぞ?」
「なんのこっちゃ!」
しばらく考えたがわからず、宗教の勧誘とかそんなんじゃないの?ということで話は終わった。
が、そんな出来事もすっかり忘れていたある日、新聞に「フリーハグ」の文字を見つけた。ハグは相手を軽く抱きしめる欧米流のあいさつであるが、日本では数年前から、見知らぬ人と抱き合うことで苦しみや悲しみを和らげ、幸せを分かち合おうとする「フリーハグ」という活動が全国に広がっている……という内容だった。
「そうか、あのとき見たのはこれだったんだ」
しかし、いまひとつ釈然としない。記事には通りすがりの人とうれしそうに抱き合う女性たちの写真が添えられていたが、なんだか奇妙な感じがした。
だって私はこんなふうに見ず知らずの人と抱き合うことはできない。そういうことがあるとすれば、我を忘れるほど感激したときくらいではないか。たとえば先日、女子バレーボールの柳本ジャパンがオリンピック最終予選で北京行きを決めたが、もしあの試合を会場で観ていたなら、その瞬間私は周囲の人と肩を叩き合って喜んだかもしれない。しかし、“素面”のときに街角に立っている人に「どうぞ」と腕を広げられても飛び込むことはぜったいにない。
この人たちはどうしてそんなことができるのだろう?
彼女たちは言う。
「ハグは言葉より温かい」
「ただ抱き合うだけで心が落ち着く。人に優しくなれる」
新たな疑問が浮かぶ。見ず知らずの人と抱き合って、心が癒されるなんてことがあるのだろうか。
たしかに、肌と肌の触れ合いはときに言葉を超えるほどの力で心に働きかける。しかしそれは私の場合、相手が誰であっても起こるわけではない。家族であったり友人であったり、今日までに積み重ねてきたものがある人とだから、互いのぬくもりや感触によって「通じ合う」ことができるのだ。
自分にできないから他の人にもできるはずがない、と言うつもりはない。けれども、赤の他人が抱き合って笑顔が生まれるとか幸せを分かち合えるとか、そんな魔法が起きるとはどうしても思えない。
mixiにも「フリーハグ」を支持する人が集まるコミュニティがいくつもあって、四千人近い登録者を抱えるところもある。
「私もみんなに幸せをあげたい。フリーハグを日本中に広めましょう」
「知らない人同士でも抱き合える。それって素敵なことですよね!」
そして、「一人じゃ恥ずかしいので、誰か一緒にFREE HUGSしてください」と仲間を募集する書き込みが連なっている。ハグの習慣のないこの国で、一人であのボードを持って街に立つのはそりゃあ勇気がいるだろう。
でも、私は思う。誰かを笑顔にしたいというなら、ハグよりもいい方法があるんじゃないか?
宗教の勧誘に間違われることも冷ややかな目で見られることもなく、いまこの瞬間から一人で実行できること。しかも、ハグに応じてくれる人を見つけることほど手ごわくない。
なにかって?それはお年寄りに席を譲るとか、白い杖を持った人に肘を貸すとか、バスを降りるときに「ありがとう」を言うとか、近所の人に笑顔であいさつするとか、そんなこと。
人が人のぬくもりを感じる瞬間は、もっと身近にいくらでもある。