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2007年11月21日(水) 「自分語り」を読んでもらうために。

お昼を食べている最中、同僚のひとりが「見て、見て」と小さな紙片をみなに配りはじめた。カラフルな自作の名刺である。
パソコンで作ったらしくまめだなあと感心していたら、携帯番号の下の「http://」ではじまる一行が目に留まった。
「へええ、ブログやってるん?」
「そうやねん、まだはじめたばっかりやねんけど。みんな来てな〜」

最近こういうことがちょくちょくある。インターネットに関心があるようにはまったく見えなかった友人知人が次々とブログやmixiをはじめ、URLを知らせてくるのだ。
私はそんなふうに教えてもらったサイトはブックマークに追加してときどき訪問するようにしているのであるが、一番の仲良しの同僚はロッカールームでもらった名刺をバッグにしまいながらぼそっと言った。
「こんなこと言ったら申し訳ないけどさ、他人の私生活なんか興味ないねんよな……。友達でも何人かブログやってる子おって、見に来てとかコメント書いてとかよう言われるけど、正直困るねん。だってぜんぜんおもろないねんもん」

心の中でアイタタタ!と声をあげる私。彼女は私が日記サイトをしていることを知らないためずばり本音を聞かせてくれたわけだが、いやしかし、まったく彼女の言う通りなのである。
林真理子さんの「文章読本」の中にこんなくだりがある。
「有名人でもなんでもないあなたが誰と食事をし、どういう話をしたかなんて知らされても誰も喜ばない。あなたがどんなふうにご主人と出会い、どんな子育てをしているかなんて聞かされても誰もうれしくない。しかし、そこのところを勘違いしている人がとても多い。
『誰もあなたのことなんか知りたくないのだ』
素人の人はこのことをまず心に刻みなさい。それでも手記やエッセイを書きたいと思うのなら、相手の耳をこちらに向けられるようおもしろいものを書くための努力を必死でしなさい」
実に耳の痛い内容だが、意地悪でもなんでもない。なにを食べた、誰と遊んだ、といった他愛のない話を楽しみにしてくれる人がいるとしたら、恋人と故郷の両親くらいのものだろうと私も思う。

だから、私は林さんの言う「努力」とはどういうものかと考えた。素人の文章を「他人が読んでもおもしろいもの」にするにはなにが必要なのか……。
私が出した答えは、それが「人に読ませる文章である」ということを書き手が理解すること、である。
これは「読み手のために書く」ということではない。「自分用ではなく他人に読んでもらう文章なのだ、ということを念頭に置いて書く」という意味だ。
その点を意識するとおのずと書くことを取捨選択するようになるし、感情を抑制することも覚える。
「“自分語り”ではあるのだが、自己満足だけで終わらない」
というのは他人に読んでほしい場合は必須条件ではないかと思う。このことは作家のエッセイを読めばはっきりとわかる。
web日記には二種類ある。不特定多数の人に読まれることを期待するものと、個人的な話にも付き合ってくれる特定少数の人に向けて書くもの。
それぞれに違った楽しみがあると思うけれど、もし「私は日記帳につけるのと同じように書きたいんだ」という後者のタイプであるなら、自由度は高い代わりに読み手に多くを求めるのはむずかしいということを知っておかなくてはならないだろう。
「こっちがブログを読んでることを前提に話す子がおるけど、あれも困るねんなあ。ちゃんと読んでないのがバレそうで」
どうして読みに来てくれないのとか、読んだらコメントよろしくねとか。そういうことを言うのは酷というものだ。

ここで日記を書くようになって明日で丸七年。
「誰もあなたのことなんか知りたくないのだ」
この言葉をあらためて胸に刻もう。

【あとがき】
芸能人なら誰となにを食べた、話した、が立派な話のネタになるけれど、素人の場合はそうではないものね。努力、というとおおげさなと笑う人がいるかもしれないけど、でも創意工夫もしないで人に読んでもらえるわけがないのですよね。