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2006年11月17日(金) 山あり谷ありの人生も、山なし谷なしの人生も。

食事中、友人の携帯にメールが届いた。それを読んだ彼女が「なんだかなあ」と苦笑して言う。
「人生ってほんま、人それぞれやねんなあ」
「なによ、突然?」
「いまの、高校時代の友達からやってんけど、『再婚することになりました』って。同じ三十四才でも、結婚話どころか浮いた噂すらないような私みたいなんもおれば、結婚して出産して離婚して再婚する、そういう子もおるんよなあ……って」

同じ教室で机を並べていた頃はふたりの人生がその後こうも違ってくるとは夢にも思っていなかった、という彼女の言葉に私も箸を止めて思いにふけってしまった。
たしかにあの時点では、クラスや部活で仲良しだった友達と自分の歩いてきた道のりは似たり寄ったりだったように思う。親の庇護のもと勉強が本分という身分、まだ恋も知らないわけだから、見てきた景色に大きな違いは生まれようがなかったとも言える。
しかし、それから二十年たったいまはどうだろうか。
一中学生、一高校生だった頃にはわずかだった経験や経歴の差が、三十なかばともなると歴然だ。独身に戻った人がいれば、結婚数年で未亡人になってしまった人がいる。起業して成功をおさめた人がいれば、倒産やリストラで職を失った人がいる。オリンピックに出た人がいれば、詐欺罪で捕まった人がいる。それどころか、すでにこの世にいない同級生さえいるのである。

「こういう山あり谷ありな人生を送ってきた子と比べたら、私なんか世の中のことぜんぜんわかってないヒヨッコなんやろうなあ」
と友人がつぶやく。
それを言うなら私も同じだ。ここまでの道のり、目の前に山や谷が立ちはだかり絶体絶命のピンチに陥ったということはない。
そりゃあ転んで捻挫したこともあれば、靴に穴を開けたこともある。もう疲れたとその場に座り込んでしまったことも。けれども、その程度の困難を山だの谷だのと言うことはできないし、もしかしたら「苦労」という言葉を使うことさえ図々しいかもしれない。

……でもさ。べつに引け目に感じる必要はないのではないかな。
人生経験が豊富、というのはプラスの響きを持っているけれど、本当に大事なのはバラエティよりも質、ひとつひとつの経験をどれだけ自分のものにしてきたかではないだろうか。
ひと頃、ネット上で「人生の経験値」という遊びが流行った。リストアップされたさまざまな事柄について経験したことがあるかないかを答えていくものであるが、○(経験あり)が多ければ多いほど魅力的な人かというと、関係ないだろう。
経験は例外なく知識を増やすが、思慮深くなったり心が豊かになったりすることとはまた別だ。ある出来事を通じて他人の痛みがわかるようになる人もいれば、喉元過ぎればなんとやらな人もいる。それはたしかに自分を成長させるチャンスを与えてくれるけれど、そこからなにかを得るも得ないもその人次第、ゲームのキャラクタのように経験値は自動的にはアップしないのだ。
それに。ある経験をしなかった人は必ずかわりの経験をしているのだから、心配することはない。たとえば、私の友人は夫婦が別れるときの苦悩を知らないけれど、その高校時代のクラスメイトは「どうして結婚しないの?」と周囲から言われつづける憂鬱やどんなにつらくても仕事をやめることができないプレッシャーはぴんとこないかもしれない。
人間の手は二本しかない。あれもこれもは持てないものだ。


一点から放射状に伸びる道をそれぞれが歩いていくみたいに、先に進めば進むほどみなの姿が小さくなっていく。同じ制服を着、同じ給食を食べていた頃とはもう違う。
人生に“開き”が生まれることが「大人になる」ということ、それがだんだんとオリジナルのものになっていくことこそが「生きる」ということなのだろうね。