前回の日記に子どもの給食費を払わない親について書いたら、「給食費を払う親の中にもとんでもないのはいますよ」とメールをいただいた。
どれどれと読んで……ポカーン。なんでも、「給食費を払っているんだから、うちの子に『いただきます』を言わせないで」と学校に苦情を言う親がいるそうなのだ。
どういう理屈なんだと唖然としつつ、そういえば同じ話を半年前、「給食の思い出」アンケートをしたときにも別の方から聞いていたことを思い出した。
もしかして有名な話なんだろうか、とネットで検索したところ。一年ほど前に新聞でも取り上げられたほど巷で沸騰した話題だとわかった。
牛乳論争も知らなかったが、“いただきます論争”にもまるで気づいていなかった。いつも夫から「ぽーっとしてなにも見てない、考えてない」とバカにされている私であるが、それが証明されたみたいだ……。
気を取り直して私のようなボンヤリさんのために説明すると、事の始まりは「永六輔その新世界」というラジオ番組に寄せられた一通の手紙。
永さんが「びっくりする手紙です」と前置きして紹介したその内容とは、ある小学校で児童の母親が「給食の時間にうちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているのだから、言わなくていいではないか」と申し入れた、というもの。
それには大きな反響があり、大半は母親に否定的な意見だった。しかしながら、そういう考え方の持ち主が世の中に稀ではないことを示すような、
「食堂でいただきますを言ったら、隣のおばさんに『なんで?』と言われた。『作ってくれた人に感謝して』と答えたら、『お金を払っているんだから、店がお客に感謝すべきでしょ』と返ってきた」
といった体験談も混じっていた。
そこから「給食や外食時には『いただきます』は不要か」という議論が起こったということだ。
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「『いただきます』を言わせてくれるな」と学校に電話をかける親がいる、そのこと自体には私はそれほど驚かない。わが子の給食費を出し渋る親がいるご時世である、そういう“常識”を持った人がひとりやふたりいても不思議はない。
私が開いた口がふさがらなかったのは、「いただきます」は人から物を恵んでもらったときに使う言葉だ、という母親の言い分を学校側が一理あるとし、そのクレームを受け入れたことである。
その“一理”はいったいどこにあるのか。
番組に届いた母親を支持する数通の手紙の中には、手を合わせる仕草を宗教的行為だとする意見があったという。
私が通っていた小学校では、日直の「手を合わせて」につづいて全員で「いただきます」と声を合わせて言い、食べはじめるのが常だった。そしていまでも私は外食時にも家でひとりごはんのときにもそうしている。それを済まさなくては箸をとるタイミングが見つけられないほど、体にしみついた習慣だ。
これまでに何万回と行ってきたことであるが、しかし私は手を合わせることが「拝む」に通じるものであるという発想をしたことがなかった。人が「はい、チーズ」と言われるとピースサインを出すようなもので、それ自体に深い意味はない、「いただきます」の言葉とセットになっている動作だったのだ。
が、言われてみればそのポーズはたしかに「合掌」である。だから仏教を連想して抵抗を感じる人がいるというのはわからないではない。
しかしながら、「それは特定の宗教の押し付けにあたる」という声には、手を合わせるのをやめるという形で対処すればすむ話である。「いただきます」ごとなくす必要はどこにもない。
「どうしてごはんの前に『いただきます』って言うか知ってる?動物や植物から命を“いただく”からなんだよ」
幼稚園の頃だったか小学校の頃だったかに誰かから教えられたことであるが、何年か前にそのことをあらためて考えるきっかけがあった。
その頃職場で親しくしていた女性がベジタリアンだった。一口に菜食主義といっても、「肉は食べないが、魚は食べる人」「肉も魚も食べないが、卵と乳製品は食べる人」「卵も乳製品も摂らない、植物性食品だけの人」などいろいろなタイプがあるのだけれど、彼女は「牛乳以外の動物性食品は一切不可」というほぼ完璧なベジタリアン。
彼女は肉や魚が目に見える形で入っていなくても、原材料にまでさかのぼって動物性成分が含まれていないかを確かめる。煮干でだしをとった味噌汁は飲めないし、ラード(豚の脂)で揚げたフライドポテトは食べられない。つゆにかつお節が使われていないことが証明されないかぎり、ざるそばさえ食べられない人だった。
市販の食品は利用できないものだらけで、もちろん外食もできない。よって菜食主義に転向してからの十年間、旅行にも行っていないという。そんな不便で窮屈な生活をどうして自分に強いるのか。
彼女がその理由のひとつに挙げたのが「どんな動物にも生きる権利があるはずだから」ということだった。彼らは人間に食べられるためにこの世に生まれてきたわけではない、その命を奪って自分の食料にすることはできない、と。
彼女の菜食に傾倒する姿は私が理解できるレベルを超えていた。けれども、私たちが口にするものは例外なく動植物の命と引き換えに与えられるものなのだ、余さずおいしくいただく、それが肉や魚を食す人間の務めなのだ、ということをつくづく思った。
彼女との付き合いはその後、悲しい結末を迎えてしまうのだけれど(こちら参照)、このとき私は何十年かぶりに「いただきます」を言う意味について考えさせてもらったのだった。
何人かで飲んでいた席で、うちのひとりが誤って畳の上でお茶漬けをひっくり返した。すると、「あっ、お米の神様が泣いてる!」とすかさず突っ込みを入れた人がいて笑いが起こった。
小さい頃、お米一粒に八十八の神様が宿っているとか八十八の手間がかかっているとか、親や先生から聞かされた。だから感謝して食べなくちゃだめだよ、と。
「雀百まで踊り忘れず」で、私はいまも茶碗にごはん粒を残さない。
牛や鶏や魚、野菜や果物の命に対して、それらの生産に携わった人、調理をしてくれた人、給食費を払ってくれている両親に対して、平和に食事がとれる環境に対して。あらゆるものにありがたいという気持ちを持つこと、子どもにそれを教えるために「いただきます」は必要なのだ。
------ということを、「こちらは代金を払っているのだから、誰に恩を感じる必要もない」と主張する母親に説明するどころか、それもそうかと納得してしまうとは……。そういう人たちが子どもにものを教えているのだから、心許ないことこの上ない。
もし自分の子どもが通う学校に「いただきます」がなかったら、私は「うちの子には言わせてください!」と電話をかける母親になろう。