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2006年07月10日(月) 良文の条件

友人に近況報告の手紙を書き始めて十五分でペンを放りだしたくなった。
彼女がメールアドレスを持っていないため引き出しの奥底から便箋を引っぱりだしてきたのであるが、恐ろしいほど手が動いてくれないのだ。話したいことがあったから書こうと思い立ったはずなのに、四、五行書くと「……」という感じで止まってしまう。
その上、「修正液!辞書!」とやらねばならないのだから、便箋三枚に三時間かかるわけだ。

私は手書きの煩わしさに愕然としながら、少し前に読んだ林真理子さんのエッセイを思い出した。
四十肩を患い、十枚も原稿を書くと肩に激痛が走るようになった。これでは仕事にならない、どうしたものかと悩んだ末、パソコンで書くことを考えた。キーを叩くのであれば腕の負担はかなり軽減されるはず。
しかし、今度は別の心配が生まれた。「書く」ではなく「打つ」にしたら、文体が変わってしまうのではないか……。
以前からワープロやパソコンで原稿を書くことに疑問を抱いていた。最近の小説がやたら長いのはキーボード入力で書かれるからだと思っている。ペンを握って書くのと違い、疲れ知らずで書き進められるためとめどなく長くなってしまうのだ。井上ひさし氏も「よい小説の条件というのは、まず手で書かれていることです」と言っているではないか------という内容だ。

思わずアイタタタ!とつぶやく。私のは小説ではないが、「パソコンで書くと文章が長くなる」については心当たりがあるなんてもんじゃない。
ひさびさに手紙を書いて気づいたのは、「手書きというのはこんなに時間がかかり、こんなにくたびれるものだったのか!」ということである。もしこの日記の原稿を毎回手で書かなくてはならないとしたら、間違いなく私は長文書きにはなっていなかった。いや、その前に日記サイトをしようということ自体、考えていなかったに違いない。
ノートにつける日記はいつも三日坊主だったのにweb日記は続いている、という話をよく聞く。読んでくれる人がいるのがうれしくてモチベーションが持続することを理由に挙げる人が多いが、「パソコンだと疲れにくい」ということも実はけっこうな貢献をしているのかもしれない。

* * * * *

ワープロやパソコンで原稿を書くことに対する懐疑的、批判的な意見は手書き派の作家のエッセイでしばしば目にする。
渡辺淳一さんは「ワープロで書かれた小説はいろいろ書き込みすぎて冗長になる傾向がある」と書いているし、出久根達郎さんは「ワープロの文章は改行が少なくびっしりと弁当箱のように詰まっていて余韻がないから、読むとすぐにわかる」と言う。
夫が買ってきたビジネス文書の書き方本にも「文章がなかなか上達しないという人はパソコンで書いているのであれば鉛筆にかえなさい。パソコンを使うと速く書けるが、頭を使わなくなりがちで文章が平面的になる」とあるところをみると、ワープロ書きは好ましくないという考えは文章のジャンルを選ばないようである。

「手書きほど時間はかからないし腕も疲れないから、文章が無駄に凝って長くなりがち」という指摘に私は素直に頷く。
しかしながら、その短所を補って余りあるメリットがワープロ書きにはある、と私は思っている。プロの作家や小説を書いている人の勝手はわからないのであくまで自分にとっての話であるが、それは「心ゆくまで文章をいじることができる」ということだ。
手紙を書きながら、「しまった、さっきのところでこれも書いておけばよかった」と思うことが何度かあった。けれど、もうそこに加筆するスペースはない。
といって、強引にふきだしを作って書き加えると非常に不細工な面になる。結果、「あ、そうそう」「ちなみに」といったフレーズがそこここに登場する、スマートでない文章になってしまった。
しかしワープロ書きではそんな問題は発生しない。手書きの原稿を書き直すには膨大なエネルギーが必要だが、挿入、削除が自由自在なワープロであれば「こうしたい」と思った姿にどの時点でも簡単に作り変えられるのである。

その「いくらでも修正できる」は劇的に文章の精度を上げるのではないだろうか。
私はこの日記を書くとき、まず最後までざっと書いてしまい、それから細部を詰めていくというやり方をするが、もし大幅な加筆訂正をしなくてもすむよう最初からある程度整った文章を書かねばならないとしたら、人前に出せるものなどぜったいに作れない自信がある。
「推敲に限界がない」
これは私にとって、ともすれば文章が冗長になるというリスクと引き換えにしても得たいメリットだ。


「手書きの文章とキーボード入力で書いた文章には異なる個性がある」ということはおおいに考えられる、と私も思う。
けれど、どちらもたしかに「ある人の文章」である。書いたにせよ打ったにせよ、その人がペンなりワープロなりが持つ長所と短所をコントロールした結果、生んだものなのだ。

手書きされたものでもだらだらと長いだけの文章はあるし、キーを叩いて書かれたものでも引き締まった文章はある。手法はどうであれ、おもしろいものはおもしろいし、つまらないものはつまらない。
「よい文章」の条件とか前提とか。そんなものがあるのかしら。