2006年07月05日(水) |
男女同室着替えに思う |
数日前、新聞社のオンラインニュースを読んでいて、こんな見出しを見つけた。
「体育着替え、公立小学校の6割強で男女同室 文科省調査」
文部科学省が全国の公立の幼稚園から高校までの四万四千校を対象に行った「学校における男女の扱い等に関する調査」で、回答した小学校の63%が体育時の着替えを男女同じ部屋で行っていることが判明した、という内容だ。
学年の内訳が書かれていないため、高学年ではどうなのかという肝心のところがはっきりしないのだが、中学校の同室率は7.5%とあるから、少なく見積もっても一割はありそうだ。
いや、それがたとえ5%だったとしても全国で10校だったとしても、「いまもそういう学校がある」という事実に私は驚くわけだけれど。
以前、子どもの性教育はいつ頃からはじめるのが適切なのだろう?という話を書いたとき、何人かの方が最近の小学校の事情を教えてくれた。その話を総合すると、一、二年生で「ペニス」「ワギナ」という言葉を教え、初潮教育をする。高学年になると「マスターベーション」「セックス」について説明し、現物を配って生理用ナプキンやコンドームの使い方実習をする学校もあるようだ。すべて男女合同の授業である。
二十数年前の私の子ども時代とはえらい違いだ。五年生になったある日、女子だけが視聴覚室に集められ、月経に関するスライドを見せられた。それが私が小学校で受けた唯一の性教育。
同年代の友人に訊いても似たようなもので、「性教育なんて学校でも家でもほとんどされなかった」と口を揃える。当時といまとでは隔世の感がある。
私は不思議でしかたがない。
いまの小学校では保護者から不安の声があがるくらい早い時期から、子どもにたくさんの性についての情報を与える。子どもが「いやらしいこと」「はずかしいこと」という気持ちを持つ前に、性の意識づけをはじめよう------世の中がそういう流れになってきているのだ。
それなのに、「男と女の体はこんなふうに違っているんだよ」と教える一方で、高学年になっても男女を同じ部屋で着替えさせているとはどういうことなんだろう。
当時を思い出すと、五年生になるとブラジャーをつけはじめる子、生理でプールの授業を見学する子が出てきた。いまの子は早熟だから、同じ年でも“大人の仲間入り”済みの女の子は私たちの頃より多いに違いない。
低学年の男の子が嬉々としてスカートめくりをするのは、異性への興味が芽生えている証だろう。女の子が十歳くらいになるとパパとお風呂に入りたがらなくなるのは、「違い」に気づきはじめたからだろう。
発育には個人差があるから、「一緒でもなんともない」という子もいる。しかし、気にする子どもが出てきてもおかしくない年齢になったら、着替えの部屋は分けてやるべきではないか。
空き教室がないというのが理由なら、ついたてを用意する、入れ替え制にするなどいくらでも方法はある。
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胸が大きいのを気にして、体育の授業で走るのが嫌だと言っていたクラスメイト。生理だと知られたくなくて、プールの日に嘘をついて学校を休んだ友達。
それはすばらしいことなのよ、大切なことなのよ、といくら親や先生から言われたって、この年頃は「まわりの友達より進んでいる=みんなと違う」ことに恥ずかしさを感じてしまうもの。バストの大きさを誇れるようになるのも、女に生理があるのは当たり前と思えるようになるのも、もっとずっと後になってからのことだ。私の学校では着替えは男女別だったが、もし一緒だったら嫌がる女の子は少なくなかっただろうなと想像する。
私もそうだったに違いない。ブラジャーも生理もまだのおぼこい子どもだったけれど、好きな男の子くらいはいた。その子の前で平気でブラウスを脱いだり、スカートをまくったりできるほど鈍感ではなかったはずだ。
しかし、これは「女の子を男の子の視線から守る」という話ではない。女の子と同じように第二次性徴期にある男の子のためにも、両者のあいだには“適切な距離”が必要なのだと感じる。
大人になったら男女別々に行うのが当たり前の事柄であるなら、大人の入口に立っている子どもにもそれを適用してやるのは当然。
「まだ五年生」ではなく、「もう五年生」なのではないだろうか。