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2006年06月21日(水) その体の大きさに見合った世界で。

先日、実家のそばで暮らしている妹のところに姪を見に行ったときのこと。どちらに似ていると思うかと夫婦に訊かれた。
「そうねえ……」
生後二ヶ月の赤ちゃんの顔をじいっと見つめる。が、あえて「似ている」と言うほどにはどちらにも似ていない気がする。
すると、やっぱりそうかと頷くふたり。いままで誰からも「パパ似だね」とか「ママにそっくり」とか言われたことがないという。「でも、通天閣のビリケンに似てると言われたことはある」と大笑いしている。
女の子なのにビリケン!?と絶句していたら、妹が言った。
「でも私、一番似てるんはお姉ちゃんのような気がするねん」
「へ?」
「赤鬼みたいな顔して泣いてるときなんか、お姉ちゃんの赤ちゃんの頃にそっくり」
そりゃあ姪はかわいい。似ていると言われるのも歓迎だ。けれども、ビリケン似だとか「将来名前が似合わなかったらどうしよう」(姪はうんと女の子らしい名前なのだ)だとかいう話のあとで「そっくり!」と言われるのは複雑だわ……。
「ところで、なんであんたが私の赤ちゃん時代を知ってるんよ」
「アルバム見たことあるもん」
実家に戻った私は納戸から大昔のアルバムを引っぱりだしてきた。赤ちゃんだった頃の自分の写真を見るのは初めてだ。
「ほ、ほんまや……」
三十四年前の私は、見るからにゴンタになりそうな男の子顔の赤ちゃんだった。そして妹の言うとおり、本当にそっくり(ビリケンとではない、姪とだ)だったのである。

さて、アルバムを見はじめたらページを繰る手が止まらなくなった。
大学時代以降のアルバムは手元にあるためときどき眺めることがあるが、実家に置いてある子どもの頃のものを見ることはまずない。
一緒に写真に写っている子の名前をひとりずつ言ってみる。近所の友達はだいたい覚えていたけれど、クラスの集合写真となるとお手上げだ。幼稚園のクラスメイトで顔と名前が一致したのはほんの数人、小学校低学年では全体の三分の一、高学年は半分。それでも、見つめていたら当時のことがよみがえってきた。
子どもの頃を振り返ると、どうしてあんなたわいもないことにびくびくしたり、悩んだりしていたのだろう?と可笑しくなる。小学生の頃、私は母に叱られるのがとても怖かった。親は子どもの頭の中が読めると思い込んでいたので、知られるとまずいことをした日------食べてはいけないときつく言い渡されていたガムを友達にもらって食べてしまったとか、三角定規をなくしてしまったとか、習字の墨汁を服に飛ばしてしまったとか------は帰り道、ばれたらどう言い訳しようかと本当に胸がどきどきしたものだ。
このあいだ、『ちびまる子ちゃん』でまる子がテストの答案用紙を考え抜いた末、部屋の壁に貼ってあった表彰状の裏に隠したが、やましさから挙動不審になり、母親にばれて大目玉を食う……という話があったが、とても懐かしい気持ちになった。
私もひどい点数のテストや視力検査で0.5をとってしまったときの診断票をどうしても親に見せることができず、その隠し場所を悩みに悩んだ。
「じゅうたんの下はどうだろう?いや、掃除機をかけるときに見つかるかもしれない。じゃあタンスの中は?だめだめ、洗濯物をしまうときにばれちゃう。じゃあどこに……」
結局私はそれを小さく小さく折り畳み、図画工作で使う四角い粘土の中に埋め込んだ。
いまそのことを思い出すと、不思議でしかたがない。そんなに見つかるとまずいものなら、どうしてわざわざ家に持って帰ったりしたのだろう?学校の焼却場で焼いたり、どこかのゴミ箱に粉々にちぎって捨てたりということもできたはずなのに。
しかし、「隠す」という行為と矛盾するようであるが、私はそれをこの世から完全に消し去ってしまうということはどうしてもできなかった。どこからか話を聞きつけた母に「こないだテストあったんだって?」と言われたときには、観念して見せられるようにしておかなくてはならないような気がしていたのだ。
隠すことはしても焼いたり捨てたりはできない、その小心さ、生まじめさが「子ども」なのだろうなと思う。大人なら、「んなこと言ったって、とっちゃったもんはしゃあないやん」と開き直るか、さっさと処分するかのどちらかだろう。

出勤途中、ランドセルを背負った子どもたちを見て、いいよなあとつぶやくことがある。
「学校行って給食食べて、放課後は友達と遊んで、晩ご飯食べたら一日が終わるんだもんなあ」
しかし、いまなら笑っちゃうくらいささいなことにも大騒ぎしていた昔の自分を思い出したら、家族を養うプレッシャーやリストラの不安、健康の悩みがないからといって彼らがお気楽に暮らしているというわけでもないのだろうな、という気がしてきた。
彼らは大人にとってはなんでもないようなことに怯えたり、パニックに陥ったりする。親がちょっとケンカしただけで離婚しちゃうんじゃないかと布団の中で泣いたり、ノストラダムスの大予言を信じて恐怖におののいたり。
最近、小学生の男の子ふたりが団地のゴミ捨て場のコンテナに入って遊んでいて、出られなくなってしまった騒動をニュースでやっていた。助けられたとき、「知らない男の人に閉じ込められた」と言ったのは親に叱られるのが怖かったからだという。
大人は「なんでそんなつまらない嘘をつくんだ」と理解に苦しんだろうが、彼らはどうにか怒られずにすむ方法はないものかと真っ暗なコンテナの中で真剣に話し合ったのに違いない。
まだ「要領」というものを持たない子どもたちには、大人には見えない苦労がきっとあって。
彼らは大人が悩むことを悩まない代わりに、大人が悩まないことを悩む。その体の大きさに見合った世界で、大人と同じだけ深刻に、切実に、懸命に生きているのだろうな。まだ泣くことしか知らないように見える生後二ヶ月の赤ちゃんでさえも。