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2006年06月16日(金) 夜明けのコーヒー

近所を歩いていたら、後ろからクラクションが聞こえた。
振り返ると、白い乗用車。しかし、私はなんのために鳴らされたのかわからなかった。一車線だけの細い道ではあるが、私は真ん中を歩いていたわけではない。わざわざ「どいてくれ」と言わなくても通れるだけの道幅はあるのだ。
なんなの?といぶかしく思ったそのとき、気がついた。ボンネットの上に燦然と輝く若葉マーク。そうか、ふつうのドライバーならそれほど苦もなく行くところだけれど、彼はちょっぴり自信がなく私に注意を促しておきたかったのに違いない。
私はぐっと端に寄って立ち止まり、その横を車がそろそろと通り過ぎるのを見送った。

* * * * *

きっと免許取りたてなんだろうなと思ったら、懐かしい思い出がよみがえってきた。
京都で大学生をしていたある夏のこと。男友だちからドライブのお誘いがかかった。
最近免許取ってさ、と電話の声が弾んでいる。父親の車で家の付近を走っているが、そろそろちょっと遠出をしてみたいから付き合えよ、ということらしい。
心優しく勇敢な私は快く練習台になってあげることにした。

当日、私たちは夜の八時から半日間レンタカーを借りた。なぜ日中ではないのか?
彼が「京都の夏といえばこれしかない!」と肝だめしをしたがったからである。
まず向かったのは嵐山の「清滝トンネル」。京都に住む人なら誰でも知っている心霊スポットのひとつだ。
トンネルに近づいた頃、彼が声のトーンを落として言った。
「どうする?もし青信号やったら……」
一車線の狭いトンネルのため、車は入口についている信号に従って交互に通行することになっているのだが、その信号は必ずといっていいほど「赤」。
しかし、そうでなくてはならないのである。青信号で待つことなくトンネルに侵入すると、ボンネットの上に女性が落ちてくるのだ!
だから、もしトンネルの前にきたときに青だったら赤になるまで待ち、再び青に変わってから通過しろ、と言われているのである。
「……そのまま行ってみるか?」
「いったん停まる!ぜったい停まって!」
助手席で本気でじたばたしたが、信号はちゃんと赤だった。

女性が降ってくることもなくトンネルを抜け、平常心を取り戻した私たちは次は北山の「深泥池」へ。「みどろがいけ」と読むのだが、その名にぴったりのおどろおどろしい噂がここにもある。
ひどい雨降りの深夜、一台のタクシーが傘も差さずに立っていた女性を乗せた。彼女は「深泥池まで」と言い、目的地に近づいたので運転手が「どのあたりですか?」と声をかけたところ、返事がない。慌てて車を停めたら、後部座席に女性の姿はなく、シートがびっしょり濡れていた……。
これは恋人に会いに行く途中、誤ってこの池に落ち、溺れ死んだ女性の霊。だから京都のタクシーは雨の降る夜、深泥池のほとりで手を挙げている女性がいても決して停まらない、という話がまことしやかに伝えられているのである。
怖いもの見たさで私たちは道路脇に車を停め、池の淵まで歩いていった。
「この池の向こうに精神病院があってな、病気を苦にして入水自殺する患者が後を絶たんらしい。でもここは泥が深いから、死体はぜったいに浮かび上がってこんのやって……」
彼が水面を見つめて言う。私を怖がらせようとしているのだとわかっていても、生あたたかい風に頬をなでられ、私は背中がぞくぞくしてきた。
「……そ、そろそろ次行こか」
「わはは、根性なしな奴ー!」

丑の刻参りで知られる貴船神社、首なしライダーが走っているという宇治川ラインを通り、その後“口直し”にいくつかふつうの観光スポットに寄って、朝の五時に私の部屋に戻ってきた。


それからもう一度だけ、彼の運転する車に乗る機会があった。
きれいにUターンしたのを見てフッと笑ったら、「……なに?」と彼。
「いやあ、運転上手になったなあと思って」
「当たり前やろ。あれから何年経ったと思てんねん」

そんなふうには見えなかったけれど、あのとき実はかなり緊張していたそうだ。
「おまえ乗せててぜったい事故れんと思ったし、それにちょっとええカッコもしたかったしな……。若かったわ、俺」

ああ、私も若かった。
いま誰かに肝だめしをしようなんて誘われてもぜったいに行かないし、徹夜に耐える体力もあるかどうか。なにより、そういう遊びができる身軽さがもうない。
二人で飲んだ夜明けのコーヒー、あれはなかなかおいしかった。