2006年06月12日(月) |
もし私が国語教師だったら…… |
土曜日の読売新聞の夕刊に「週刊KODOMO新聞」という面を見つけた。
子どものためのページらしく、「石原千秋先生の国語教室」というタイトルで某私立中学の昨年度の国語の入試問題が掲載されている。
「次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい」という口調にそうそう、こういうのやってたなあと懐かしくなった私は夕食後、裏の白いチラシと鉛筆を用意してダイニングテーブルに向かった。
……のであるが、これがなかなか手ごわい。
長文は日高敏隆さんという動物学者が書いた評論だったのであるが、読みながら何度も集中力が途切れた。学生でなくなってからというもの、エッセイだのコラムだのといった咀嚼しやすいものばかり読んできたため、こういうお固い文章を読み通すのに必要な根気というか忍耐力というかがすっかり衰えてしまったらしい。気を抜くと飛ばし読みをしそうになり、そのたび「イカン、イカン」と戻った。
そして二十分後、答え合わせ。
「うっそお……」
私はリビングのテレビを消し、「コーヒー飲みたい」「なんか果物むいて」とぴいぴい言う夫も無視、制限時間が書いていなかったのをいいことに時計を気にしないで真剣にやった。にもかかわらず、四問中一問、間違えていたのである。
その設問の正解は二文字の単語だったのだが、私は文章で答えていた。言っていることは同じなので私のでも丸になるんじゃないかとは思うけれども、完璧な解答でなかったのはたしか。
自分で言うのもなんだが、私は国語の成績だけはとてもよかった。長文の中の空欄を埋める問題はたいてい選択肢を見る前に答えを用意することができた。そのくらい読解力には自信があったのに、小学六年生が受ける試験の問題で満点をとれないとは。
「昔とった杵柄もいまじゃすっかりぼろくなって……」
そのときふと、私は以前読んだ群ようこさんのエッセイを思い出した。
ある年の国士舘大学の入試問題に、ある雑誌に掲載した両親についての文章が使われた。群さんは自分のエッセイを材にとったそれを解いてみることにした。
すると、いくら頭をひねってもわからない設問があるではないか。自分が書いた文章なのに、伏字にされている箇所に入れるべき「適切な語句」が浮かばないのだ。で、考えに考えた末に埋めた答えは不正解。
「著者が全問正解できないような問題で不合格になった人がいたらごめんなさい」という内容であった。
その文章を書いたとき、自分がその箇所になんと入れたかを思い出せなくても、前後の文脈からわかりそうなものなのに。というより、わかるはずなのだ。そもそもどんな言葉が入っていたのか知らない人たちが解く問題なのだから。
けれども、実際にやってみたら書いた本人が間違えてしまう……。これが「答えはつねにひとつ」の数学とは違う、国語のおもしろさだろう。
* * * * *
それにしても、自分が書いた文章が国語の試験問題になり、それを自分で解いてみる……なんてユニークな経験ができるとはうらやましい。
そのエッセイには、群さんがある設問を読んで憤慨する場面があった。「筆者がそのように考えた理由を次の中から選べ」の選択肢の中に、
「これ以上美人になれるわけはないし、いまさらくよくよ悩んでみてもはじまらないと悟るようになったから」
というものがあり、思わずむっとしたそうだ。たしかに「んま、失礼ね」と言いたくなるわねえと相槌を打ちつつ、笑ってしまった。
設問を通して、出題者が自分の文章をどう読んだのかが透けて見えるからおもしろい。
筆者が解答と解説を読んだら、「お、この出題者、ちゃんとわかっとるじゃないか」と思うこともあれば、「いやいや、それは深読みしすぎだよ」と苦笑することもあるのではないだろうか。
でも私の文章がどこかの試験で使われることはありえないから、もし私が国語教師だったら、授業中のテストで何食わぬ顔をして自分の文章を採用するんだけどなあ!
過去ログから適当なテキストを引っぱってきて、ところどころ空欄をつくったり、ある一文に傍線を引いたりして、「Aにあてはまる言葉を答えよ」「このときの筆者の気持ちとしてもっとも適切なものを選べ」なんて出題するのだ。
で、採点してみたら生徒たちの出来があまりにひどい。「なんだなんだ、ちっとも趣旨が理解されてないじゃないか」「私の文章、そんなにわかりづらいのか……」と腹を立てたり愕然としたりするのである。
考えただけで楽しそうだ。
……いっぺんやってみよかしら。
え、生徒もいないのに誰を相手に、って?
あら、そんなの決まってるじゃないですか。
ある日の日記が「小町先生の国語教室」になっていたときはみなさん、お付き合いくださいませ(答案メールはもちろん回収して、私が採点しまーす)。