先日、東京に遊びに行ったときのこと。
夜、渋谷駅で友人と別れた後、ネットカフェに入った。東京に来ていることを誰かに伝えたくなった私はmixiを開き、「親愛なるマイミクのみなさん、いま私がどこにいるかというと……」と日記を書いた。
するとまもなく、「なんと!僕も昨日渋谷の漫画喫茶行ってました。もしかしたら同じところかも」というコメントがついた。
まああ、ニアミス!でもさすがに同じ店ってことはないわよね、この渋谷にネットカフェ(とあえて言う)は目をつぶって歩いてもぶちあたるくらいたくさんあるもの。
……と思いつつ、私は駅前の「自遊空間」ですよ、と返信したら。
「僕も自遊空間にいましたよっ!!」
とにかく狭い店だった。丸一日ずれていたら、店内ですれ違ったり私の日記に彼が隣席のパソコンからコメントをつけたりという可能性も十分あったわけだ。
思わず、「イッツ・ア・スモールワールド!(世間は狭いね)」と叫んでしまった(前日、ディズニーランドに行ったもんで)。
ところでmixiといえば、「オープン二年で入会者数三百万人を突破」という記事を少し前にネットニュースで読んだ。
今年に入ってからの一日の平均新規入会者数は一万四千人ということであるが、そんな数字を聞かずとも、とにかくものすごい数の人がいまmixiをやっているのだということは実感としてある。
ネットカフェに行くと、自分の席に着くまでにいくつのパソコンであのオレンジ色の画面を目にすることか。このあいだなど、右隣りも左隣りもmixiを開いて作業中。これで私が開いたら三連続でお揃いの画面か、と思うと妙にはずかしかった。
総務省の調査によると、三月末現在でmixiをはじめとするSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とブログの登録者数を合わせると千五百万人なのだそうだ。日本の人口が一億二千万くらいだから、恐るべき数である。
「書く」は「読む」と比べたら圧倒的に手間暇がかかり、面倒くさい。と私は思っているので、それを趣味にする人が世の中にそんなにたくさんおり、なおかつその数がうなぎのぼりである、なんて聞くと驚かずにはいられない。
お金はかからない代わり、時間と筆まめさがいる。「日記書き」なんて多忙な現代人がはまるような遊びではないと思っていたけどなあ。
……と思っていたら、先の数字には更新が途絶えているページが相当数含まれているらしい。
一ヶ月に一度以上更新がある、いわゆる「生きている」ブログは三割と言われているそうで、やっぱりそうかと頷いた。
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「どうしてブログは三日坊主になる?」という記事ではその現状について、サイバーローグ研究所という会社の代表者の男性が「開設してもひと月くらいでやめてしまう人が多い」と分析、六つのブログを運営している立場から「継続する秘訣」をいくつか挙げている。
「ネタ帳をつくる」「アフィリエイト(企業広告)で儲けようとしない」といったことであるが、その中にへええ!と思ったものがあった。
「生活の中に組み込んでしまえば、歯を磨くのと同じように日記を書くことも当たり前になる」
ということで、彼は指定時間になるとパソコンにブログのテンプレートが開くよう設定しているというのだ。
「こうなると書かざるをえない」と男性。
まあそうでしょうねえ……とつぶやきつつ、なんだか可笑しい。だって日記って、そこまでしてつづけようとするようなものか?
なにかを継続させようと思えば、ある程度の強制を自分に課す必要はある。無理は一切しない、気が向いたときだけでオッケー、ではかえってつづかないものだ。けれども、日記書きは「継続=目的」のダイエットや禁煙とは違う。
いまは芸能人もスポーツ選手もブログを開設しているが、自分が好きでやっているのか、ファンのためにやっているのかは伝わってくる。横峰さくらさんがブログが負担になってしまい、本業に影響が出かねないという理由で閉鎖したことがあったが、「なかなか更新できなくてごめんね。いつも応援してくれてありがとう」の繰り返しでかろうじて継続しているようなページは少なくない。
半端でなく忙しい人たちなのだから無理してブログまでやらなくていいじゃないと思うと同時に、たとえ時間があっても誰にでもつづけられるわけでないのが日記なのだろうな、と思う。
その人にとって「書く」が“趣味”になるか、それとも“作業”以上のものにはならないか。
それが相性というもの。性に合っていれば、何時からは執筆の時間、なんて決めなくてもおのずと習慣になり、眠い目をこすってでも書くようになる。
どんなことでも、やめずにつづけることが崇高なわけではない。毎日は忙しく、世の中にはおもしろいことがあふれている。それなのに、人はどうして日記となると「三日坊主にしちゃいけない」と意固地になるんだろう?