2006年02月13日(月) |
社交辞令と大人の付き合い |
休憩室でお昼を食べていたら、仲良しの同僚が「ちょっと聞いてよお」とやってきた。結婚式の二次会の招待状を送ったら、来てくれると思っていた人から続々と欠席の返事が届いたという。
彼女はテニススクールに通っており、その仲間に結婚することを報告したところ、うちのひとりに「二次会にはもちろん私たちも招待してくれるんでしょ?」と言われた。毎回練習の後はみなでお茶をして帰るとはいうものの、二次会に誘うほどの仲ではないと思っていたので、彼女は驚いた。が、ほかのメンバーも「○○さんのだんなさんになる人、見てみたい」「私も行きたい」と言いだし、思いがけず座が盛り上がったため、急遽二次会の招待者リストに五人を追加した。
しかし蓋を開けてみたら、全員が「欠席」に丸をつけてきたのである。
「私、日にちだってちゃんと伝えてたんよ。行きたいから招待状送ってっていうあれは社交辞令やったん?信じられへんわ」
招待状が届いたときのテニス仲間の反応を、私は容易に想像することができる。
「○○さんの二次会の返事、もう出した?」
「あ、それねえ、その日別の予定入っちゃって」
「実は私も。約束あったのすっかり忘れてて」
「えっ、あんたたち行かんの?私、どうしようかなあ……」
「じゃあ私もやめとく。だって行ってもしゃべる人おらんし」
まあ、こんなところだろう。彼女たちの「行きたい」が口からでまかせだったとまでは言えなくても、思いつきレベルの発言だったことは間違いない。
社交辞令を真に受けて失敗したことは、私も何度もある。
職場で配られた台湾土産を何人かで食べながら、
「台湾っていっぺん行ってみたいんよね」
「私も。食べ物おいしそうだしね」
「じゃあ行こうか、みんなで」
という展開になった。スケジュールの話まで出たので、私は嬉々としてガイドブックを買った。
が、次の日、本気にしたのは私だけだったことが判明。一年前、夫と台湾に行ったときに長いこと本棚の肥やしにしていたその『るるぶ台湾』を持って行ったら、載っている店は潰れているわ、地下鉄が開通して地図は参考にならないわ、でまったく使いものにならなかった。
こんなこともあった。結婚してまもない頃、夫の実家にお歳暮を贈ろうとしたところ、「そんなのいいわよ」と義母。親子の間で中元、歳暮のやりとりはしないという友人が周囲に何人かいたこともあり、私は「それもそうか。お金のない息子夫婦からそんなのもらっても、かえって気を遣うよね」と納得し、本当になにもしなかった。
そうしたら、しばらくして夫の実家から宅配便が届いた。熨斗に「歳暮」と書いてある。私は百貨店に駆け込んだ。
この年になっても、どれが社交辞令でどれがそうでないのかを見分けるのはむずかしい。
しかし、では「社交辞令なんかこの世からなくなってしまえ!」かというと、そういうわけではない。
ある程度の年齢になると気の合う人とだけ付き合うということができなくなるから、無用の衝突を避けるために“大人げ”や“融通”というものが必要になる場面も出てくるものだ。
「社交辞令は大嫌い。だから、私も本心でないことは人には言わない」
というのは一見、裏表のない信頼できる人のような気がするが、実際に近くにいたら、かなり子どもっぽい人という印象を受けるのではないかと思う。
たとえばデートの誘いを断るとき、「その気になれないので、ごめんなさい」とは言わない。やはり「仕事が忙しくて、時間が取れないの。ごめんね」と言うだろう。「嘘も方便」という言葉があるが、この遠回しな表現は相手を傷つけることなく、相手に恥をかかせることなく、しかしNOを察してもらいたい……という思いからきている。
言われたほうは「本当に忙しいのか、それとも断る口実か」と迷うことだろうが、相手との距離、返事の中に今後につながる言葉があるかないかといった点から判断しなくてはならない。だから、断る側は「ぜひまた誘ってください」なんて相手を期待させるようなことを言い添えてはならない。
「俺は社交辞令は苦手なんだ。はっきり断ってくれ」と言いたくなる気持ちはわからないではないが、相手に言いにくいことを最後まで言わせることなく意図を察する、それも心遣いというもの。
やんわりと、しかしちゃんと断りの意思を伝えることができる、あるいは断りのメッセージであることを読み取ることができる、それが大人ではないだろうか。
引越ししましたハガキに「近くにおいでの際はぜひお立ち寄りください」という一文を入れる。気が進まなくて披露宴に欠席の返事を出すとき、「当日は同僚の結婚式と重なってしまい、出席できず残念です」と書き添える。誰かに会えば、「いつもお世話になっております」と頭を下げる。
こういう社交辞令は、円滑、円満な人付き合いをするのに必要な“ノリ”であると思う。
「京のぶぶ漬け」伝説のように笑顔で意図と正反対のことを言われると、真意を測りかねて困ってしまうし、いかにも口先だけの誘いには辟易する。
しかし、人がいついかなる場面でも頑なに本音しか口にしないようになったら、人間関係はずいぶんぎすぎすぱさぱさしたものになるのではないだろうか。