旅行代理店に勤める友人が「社長賞」をもらったという。
成績と部門長の推薦によって全社員の中から東西各一名が選ばれるものだというから、それはもう名誉ある賞だ。つまり、彼女は西日本でもっとも優秀な社員ということになる。
友人は順風満帆の社会人人生を歩んできたわけではない。大学を卒業してから旅行業界ひと筋できたが、二度も倒産の憂き目に遭い、いまの会社で三つ目だ。きっと苦労も多かっただろう。
「結婚もせんとがんばってきた甲斐あったわ」
と胸をそらす彼女に、
「えっ、独身なんは仕事のせいちゃうやん」
と突っ込みを入れつつ、私もとてもうれしかった。
さて彼女、そのお祝いで直属の上司にふぐをご馳走してもらったらしい。だめモトで「てっちりが食べたい」と言ってみたところ、本当にふぐ料理屋に連れて行ってくれたそうだ。しかも鍋だけでなく、皮刺しや刺身、唐揚げまでついたフルコースだったという。
「てっさの薄造りの身がきれいでねえ」
「鍋の後の雑炊がこれまた格別で……」
「でもひれ酒は飲めんかったわあ」
彼女の話を黙っておとなしく聞く私。
そりゃあ私だってできるものなら、「雑炊もいいけど、ふぐ茶漬けも捨てがたいよね」とか「私、白子はだめなのよ」とか合いの手を入れたい。しかし、ちゃんとしたふぐを食べたことがない私は「へええ」「ほおお」と拝聴するしかないのだ。
ちゃんとしていないふぐなら、一度食べたことがある。
二年前の冬、てっちりというものを食べてみたくてA子と下関に出かけた。学生時代の友人B君があちらに住んでおり、いい店を知っているというので案内してもらうことになっていた。
が、出発前夜になって彼からインフルエンザで寝こんでいるため会えないと連絡が入った。私たちのことはやはり共通の知り合いで下関在住のC先輩に頼んであるから心配ない、とのこと。
そんなわけで、急遽Cさんのお世話になることになった。……のであるが。
雑居ビルのかびくさいエレベーターに乗って到着したのは、場末ムード満点のスナックだった。
きょとんとしている私たちに、「ここのママには世話になってるんだ」とCさん。ああ、なるほど、紹介がてら私たちを連れて来たのね。そしてちょっと飲んだら、ふぐを食べに行くつもりなのね。
ほっとしたのも束の間、昭和な髪型をしたママが「大学の後輩なんだってえ?」と言いながら、私たちの席にやってきた。「あ、はい」と答えながら、私の目は彼女が手にしている一口コンロに釘付け。
まさかそれ、このテーブルに置いて行くんじゃないよな……。
ドキドキしながら見つめていたら、私の視線に気づいた彼女はにっこりして言った。
「ふぐは初めて?」
はじめ、私はそれが「てっさ」だとわからなかった。大きな丸皿に花の形に並べられていたのではなく、角皿に小山のように“盛られて”いたからだ。
しかも、下手をしたら一センチくらいあるんじゃないかと思うくらい身が厚かったのである。ふぐの刺身というのは皿の絵模様が透けて見えるくらい薄く引くものじゃなかったのか……?
A子が思わず「これ、むっちゃぶ厚くない!?」と声をあげたら、ママは得意げに言った。
「でしょ。こんな厚いの食べさせてくれるとこ、ほかにないわよ」
なぜふぐは薄造りにするか。弾力があって身が固いため、いっぺんに二枚三枚とって好みの歯応えにして食べるためだと聞いたことがある。
私は心の中で「ぶ厚いほうが得とかいう問題なんかあっ!?」とわめいた。
そんなだから、てっちりのほうも言わずもがな。まだ沸騰していない湯の中にふぐのあらをどかっと投入するママ。
ふぐというのは淡白な味らしいから、熱湯ではだめなのかしら……。と一瞬考えたが、いやしかし、鍋の具材はふつう煮立ってから入れるものである。思いきって訊いてみる。
「あの、沸いてなくても入れちゃっていいんですか」
「蓋してたらすぐ沸くわよ」
しばらくしたら鍋がグツグツいいはじめた。ママは「ふぐ鍋はね、ぽん酢をつけて食べるのよ」と言って、ミツカンの味ポンを私たちの前にゴン!と置いた。
* * * * *
のぞみに乗って出かけた下関で、私はふぐを数切れしか食べなかった。
味の問題以前に「このふぐ、まさかママがさばいたんじゃ……」と思ったら恐ろしくて、どうしても箸が伸びなかったのである(ちなみにA子もC先輩も生きている)。
そんなわけで、あれは私の中で“ふぐ体験”としては認定されていない。
「あのさ、話の種にいっぺんふぐってものを食べてみたいんやけど……」
唯一スポンサーになってくれそうな男性にお伺いを立ててみる。が、接待の席で何度か食べたことがある彼は(される側ではなく、する側だ)「言うほどうまいもんじゃないよ」とつれない。
お高いものを食べさせて、妻が味をしめたら大変だと思っているのではないだろうか……。
しかし、この冬こそリベンジを果たしたい。