過去ログ一覧前回次回


2005年11月07日(月) 匿名社会(後編)

※ 前編はこちら

しかし、親が我が子のクラスメイトの名前も満足に知ることができないなんて、どう考えてもまともな状況だとは思えない。
それに、子どもがよく遊んだり家に出入りしたりしている友だちの連絡先を把握できないということに不便や不安はないのだろうか。

「そりゃああるよ。子どもらは電話番号とか教え合ってるらしいけど、親にはその情報は回ってこんでしょ。お互いになにも知らんから親同士のつながりも生まれようがないしね」

大きく頷く。
たとえば子どもが夜になっても帰ってこないとする。不吉な予感が頭をよぎったとき、私たちの親はクラス名簿を見て「うちの子、お邪魔してませんか」と片っ端から電話をかけて回るということができた。が、友人にはそれができない。なんせ緊急連絡網の電話番号さえ、自分の後ろふたり分しか教えられていないのだから。
しかし、彼女はこう続けた。

「でも、そのほうが無難かなとも思う。名簿がどう扱われるかなんてわからんから」

たしかにそうだ。
クラス名簿が配布されると自分の家の情報が他人に知られることになるが、それは「他人の個人情報を自分が収集すること」でもある。しかしながら、そのことに気づいていない、あるいは気づいていても他人の個人情報の扱いに無頓着な人は少なくないのではないか、という疑念を私も持っていた。
知人から届いた「メールアドレスを変更しました」などの連絡メールの宛先欄に見知らぬ人の名前がずらずらと並んでいるのを見て、ぎょっとした経験のある人は少なくないだろう。インターネットが流行りはじめた頃なら「BCCを教えてあげなくちゃ!」と思えるが、当たり前にメールを使って仕事をしているはずの人にこういうことをされると、考え込んでしまう。
携帯をどこかで落として不便だ、ああ困った、と友人がぼやくのを聞いたときも「おいおい……」と思った。トイレに落としたり洗濯したりして使えなくするのは勝手だけれど、なくすのは勘弁してほしい。それには私を含め、たくさんの人の名前やら電話番号やらメールアドレスやらが登録されていたんでしょう?


結婚した当初、私がへええと思ったのは夫が郵便物や何かの書類を捨てるとき、個人情報が記載されている部分をすべて切り取り、シュレッダーにかけることだった。
開けた引き出しも閉めないような横着な人であるが、会社では社外秘を扱うことも多いから、そういう処分の仕方が習慣になっていたのかもしれない。が、私はそれまでそのようなことを考えたことがなかったため、最初のうちはハガキや封筒の宛て名シールを剥がしながら、「いちいち面倒だなあ」と思ったものだ。
しかし、これもゴミの分別と同じで、慣れるとどうということもなくなった。それどころか、いまではきちんとやらなくては気持ちが悪い。ダイレクトメールをそのままゴミ箱にポイ、なんてことはもうできない。
だから、もし私が規定外の日にゴミを出し、「こんな非常識なことをするのはどこの家!?」と怒った誰かに袋を開けられることがあっても、うちのものだとはわからないはずである。

しかしながら、自宅にシュレッダーがあるとか郵便物を捨てるとき同じようにしているという人の話はほとんど聞いたことがない。私はこのご時世には妥当な取り扱いだと思っているが、神経質だと感じる人もいるだろう。銀行のATMの画面の周りには利用明細書が放置されているし、ネット上には子どもの写真満載の育児系サイトがたくさんある。リスクの感じ方にはそれだけ個人差があるということだ。
とすれば、子どもの学年が上がったとき不要になったクラス名簿をどのように処分するかも親によって違ってくる。シュレッダーにかけたり、細かくちぎったりする家ばかりではないだろう。丸めてゴミ箱に放り込んだり、新聞と一緒に廃品回収に出したりする家があっても不思議ではない。

自分の個人情報は本人が自己責任で好きに扱うことができる。しかし、名簿は他人の個人情報でもあるということに思い至らない人がいる可能性を考えると、「多少不都合があっても無難なほうがいい」と友人が言うのも理解できなくはない。
“流出”は悪気がなくても起きるから。


……しかしながら。
数日前の新聞に、個人情報保護法施行後、署名運動に対する拒否反応が目立つという内容の記事が載っていた。半月前には国勢調査員を務めた女性が書いた「調査票の手渡しを断られることも多く、回収に苦労した」という投書を読んだ。
潔癖が過ぎて過剰な消毒を施すと、人に有用な菌まで死滅してしまう。個人情報の管理についても同じことが言える。“無菌”状態は------有用性を考えない、あらゆる情報の非開示は------リスクだけでなく、リターンの芽も摘み取る。

「こないだ日曜参観に行ったらね、教室に図画工作の絵が貼ってあったんやけど、どれが娘のかわからんの」
と友人が苦笑するのを見て、そんなことを思った。