過去ログ一覧前回次回


2005年11月02日(水) 匿名社会(前編)

友人が勤める会社で、最近ちょっとした騒動があったらしい。
同僚の女性が顧客から受け取った個人情報満載の書類を紛失してしまった。会社に知れるとまずいと思ったのか、それともそれほどの大事だと思っていなかったのか。彼女は誰にも相談することなく、その顧客に電話をかけた。謝罪して、もう一度書類を書いて送ってもらおうとしたのだ。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。運悪くというべきか、その顧客は信販会社勤務の、個人情報の取り扱いに関しては“プロ”の人だった。
「あの書類には口座番号も記入してある、捺印もしてあるんだぞ!それをなくしたからもう一度送れだと?お宅は客の個人情報をなんだと思ってるんだ!」
そう怒鳴られ、女性は慌てて上司に事の次第を報告、電話を代わったが、相手の怒りは収まらない。ついには損害賠償を請求される事態に発展してしまった。
以来、彼女は欠勤しているのだそうだ。

友人の会社では社員が業務の中で顧客情報に接する機会は頻繁ではないため、個人情報保護に関する教育をそれほど熱心にはしていなかったという。
もし私の職場でこのようなことが起こったら、その人は会社の信用に傷をつけたということで相当重い処分を受けるだろう。もろに個人情報を扱う業種なので、その管理については半端でなく厳しいのだ。
フロアにはIDカードをスキャンして出入りするが、その際は手ぶら。業務に必要な文房具はあらかじめ机に入っており、ペン一本持ち込むことも持ち出すこともできない。帰るときは引き出しに備品一式が揃っていることを社員に確認してもらわなくてはならないのである。ノートは毎日中身をチェックされ、業務中にとったメモを勝手にシュレッダーにかけることも許されない。
顧客の自宅に電話をかけると、家族から「本人は留守なので、代わりに聞いておきます」と言われることがあるが、内容開示はもちろんできない。本人は仕事で毎日夜中まで帰ってこないと言われようと、耳が遠くて電話で話せないため自分が一切をまかされていると言われようと、本人は死んだと言われない限り、その場は「改めます」で通さなくてはならない。
融通を利かせる余地などまったくない。しかしそれが社内における個人情報管理の鉄則、いや常識なのだ。


しかしながら、今年の四月に個人情報保護法が全面施行されて以降、新聞ではそれによる弊害についての記事や「行き過ぎなのではないか」という内容の投書をよく目にする。
先日読んだのは「授業参観や運動会のとき、展示してある児童の作品やげた箱から名前を外す」という記事。保護者にまぎれて不審者が校内に入り込む可能性があるからだ。
大阪教育大付属池田小学校の事件があってから、子どもの安全確保のために神経質にならざるを得ないのはよくわかるが、そこまでするのかと驚いた。

……という話を小学生の母親である友人にしたところ、「そうそう、それでこないだ大変な目に遭ったわ」と彼女。
娘に傘を届けに学校に向かう途中、保護者用のIDカードを忘れたことに気づいた。が、説明すれば入れてもらえるだろうと思っていたら、校門の守衛さんは「カードがないと立ち入りは許可できない」の一点張り。押し問答に敗れた彼女は十五分かけて取りに戻ったらしい。

「何年何組の○○子の親です、って言ってもだめやったん?」
「うん、子どもらが道でしゃべってるの聞いたら名前なんか簡単に知れるからやろうね。まあ、親としてはそのくらい厳しいほうが安心といえば安心やけどさ」
私が小学生の頃は校門は開けっ放しだった。守衛さんなどもちろん立っておらず、忘れ物を届けに来た保護者は自由に出入りできた。時代が違うのだと思えども、あ然としてしまう。

が、驚くべきはそれだけではなかった。
クラス名簿が配られないため、子どもの友だちがどこに住んでいるのかわからない、電話番号も緊急連絡網の自分の後ろふたりの分しか教えられない、おまけに担任の先生の連絡先も知らされないというのである。
登下校時に名札を外すとか、学校のサイトに掲載される子どもの写真は遠景か後ろ姿のものばかり、そうでなければ顔にモザイクがかけられるという話は以前から聞いていた。しかし、いまや自宅の住所や電話番号といった情報をクラスメイトの家族に知らせるのも好ましくないと判断されるような世の中なのか……。 (つづく