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2005年10月28日(金) 子ども。(前編)〜紙一重

去年の秋に出産し、育児真っ只中のA子のストレスがかなりたまっているようだったので、気分転換に食事にでも行こうと誘った。
メンバーはB子を加えた三人。ひさびさに会ったA子がメールから想像していたよりもずっと元気そうだったので安心していたら、呑んでいるうちに「子育てがこんなにしんどいものだったとは……」とこぼしはじめた。
「生んでから何ヶ月かは歯を磨く暇もなかったんよ」
と私に訴えるように言う。しかし相槌は打つものの、何にそこまで忙しいのかわからない。小さな子どもを持つ女性は自分の時間などまったくないと口を揃えるし、見るからに大変そうでもあるが、歯も磨けないなんていくらなんでもおおげさなのではないかしらん。買い物に行けないとか髪を切りに行けないとかいう話なら、いくらでも聞くけれど。
そう思っていたら、離乳食作りの話を聞いてびっくり。火を通した食材をすりつぶしたり、裏ごししたり。具の形がなくなるくらいまでスープを煮込んだり、自分たちのとは別に子ども用の柔らかいごはんを炊いたり。メニューはもちろん、できるだけ多くの品目を摂れるよう考えたもの。それを毎食、ごはんは八十グラム、芋は、野菜は……とキッチンスケールで計量して与えているというのだ。
「ええー!」と声をあげる私とB子。といっても驚きの内容は違っており、育児未経験者の私は「赤ちゃんのごはんってそんな手間がかかるものなの?」とのけぞり、小学生の母親であるB子は「そらそんなことしてたら、ごはん作りだけで一日が終わってしまうわ」と突っ込んだ。
「キューピーとかのベビーフードも使ったらええやん、あれ便利やで」
「市販のものってなんか不安で。ジュース飲ませるときも生の果物絞ってるねん」
「私なんか面倒なときはミルクにパン浸したり、ヨーグルトにバナナ混ぜたりしたもんで済ませてたよ、あはは」
「えっ、そうなん!それでちゃんと育った?」
「当たり前やん。先長いのに、そんな完璧にやろうとしてたら体持たんで」

実際、A子はかなりまいっていたようだ。夫婦ふたりのときは掃除も適当だったが、子どもが生まれてからは毎日掃除機をかけなくては気がすまなくなった。ハウスダストがアレルギーの原因になるという話を聞いたからだ。外気浴もさせなくては、とどんなに眠くても疲れていても必ず散歩に連れて行く。
しかし、そうしていたら一日などあっという間で、「今日も“育児”しかしなかった……」とときどき途方もない虚しさに襲われるらしい。
つい最近、叱ってもいたずらをやめない一歳二ヶ月の女の子を団地五階の自宅窓から投げ落とした母親が逮捕されていたが、このニュースを他人事として聞くことができなかったという。
「子どもを虐待するのって、誰の目にも鬼のような母親ばっかりってわけじゃないと思う。ずっと食べ物を与えないとかいうのは考えられんけど、カッとなって衝動的に……っていうのは自分も紙一重かもしれんってぞっとすることあるんよ」
半年ほど前、息子を抱いて歩いているA子に街でばったり会ったことがある。そのとき、彼女が「この子さえいてくれたら、なんもいらんわ」と本当に愛しそうに頬ずりするのを見ていたので、この発言には驚いた。
息子は可愛いし、生んでよかったと心底思っている。けれど、ごはんを食べさせるときだけは憎くなるのだ、と彼女は言う。
食が細く、そのためか標準より少し小さい。そのことが気になって気になって、なんとか体重を増やそうとあの手この手で食べさせようとするのだが、子どもはちっとも欲しがらない。
もともと料理が苦手でコンプレックスを持っている。私の作るごはんはそんなにまずいのか。情けなくて、涙がぼろぼろこぼれた。
「なんで食べてくれへんのようっ、明日は十ヶ月検診やのに!!」
はっと気づくと、息子のほっぺたをぎゅうっとつねっていた。 (つづく