土曜の午後、大阪府吹田市にある関西大学千里山キャンパスに出かけた。読書教養講座という公開授業があり、その中で作家の出久根達郎さんの講演が行われることになっていたのだ。
いま出久根さんの名を聞いて、「小説、読んだことあるわ」と相槌を打った方はそれほど多くないのではないかという気がするのだが、読売新聞をお読みの方は「ああ、あの人か」とぴんときたかもしれない。家庭欄の人生相談の回答者を務めておられるのだ。
いつも理性的で温かいアドバイスをなさるので、どんな人なんだろうとエッセイを読んでみたところ、素朴な人柄がにじみでた落ちついた文章である。「あー、面白かった!」という読後感はないけれど、突拍子もないことは書かれていないという安心感がある。
その出久根さんの話を生で聞けるというので、雨の中、私はいそいそと出かけた。
見た目は顔が大きくて髪が薄くて、どこにでもいる普通のオジサン。しかし話がとても面白く、途中で何度も笑いが起こった。
出久根さんには「作家」以外にもうひとつ、「古書店主」という肩書きがある。エッセイにも古本商売にまつわる話がよく登場し、本にとても愛着を持っておられることが伝わってくるのであるが、それが生い立ちに深く関係していたことを今回初めて知った。
昭和十九年生まれの出久根さんは家が貧しかったため、本を買ってもらえなかった。そのため、小学生の頃は六キロ離れた隣町にある書店で立ち読みをするのがなによりの楽しみだった。
ある日、いつものように店頭で読んでいると、客のひとりが店主に「朝から晩までただ読みして……。どうせ買わないんだから、追い出してしまいなさいよ」と言うのが聞こえた。自分のことだとわかった出久根少年がびくびくしていると、店主は言った。
「いいのよ。あの子は将来のうちの店のお客さんだから」
どんなにみすぼらしい格好をしていても、お金を持っていないことがわかっていても、追い出されなかった。うれしかった。
このとき、少年は「僕は将来本屋さんになる」と決めたのだった。
といっても、最初から古書店主になるつもりだったわけではない。中学を卒業すると同時に集団就職で上京したのであるが、学校に斡旋された書店を訪ねて行ったら古本屋だったのだ。
新刊書を売る店とばかり思っていた少年はたいそうがっかりするのだけれど、結果的に古本と出会ったことによって二十数年後、「作家・出久根達郎」が生まれるのだから、人生というのは本当にうまくできている。十三年間古本屋修行をした後独立開業し、お得意様に郵送する在庫目録の後ろに書いた「古本屋の店番日記」が店の客だった新泉社という出版社の社長の目に留まるのである。
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いい話をたくさん聴いたのだけれど、目から鱗が落ちたのをひとつだけ。
いわゆる古書店と、ブックオフに代表される中古本の流通チェーン店とはまったく別物で、前者は知識がものを言う商売。むずかしいのは値のつけ方で、腕の見せ所でもある……という話の中で、出久根さんは「本の帯を捨ててはいけない」とおっしゃった。
帯なしだと二千円で買い取られる本が、帯ありだと一万円の値がつくこともある。古書店業界では、帯が付いていてこそ「完本」なのである。
が、出久根さんはそのためだけに帯を付けておけと言っているのではなかった。
「帯もれっきとした本の一部。内容の紹介文やキャッチコピーを書いたり、デザインを考えたりした人がいる。カバーと絵が連続しているような工夫がこらされたものもある。本に尊敬の念を持ってほしい」
私は自分のことを本に愛着を持ち、大切にする人間だと思ってきた。線を引いたり書き込みをしたりはしないし、雑誌のように読んだらポイとやることもできない。待ち合わせ場所で友人に「お待たせ」と声をかけたら、彼女は読んでいた文庫本のページの右肩を大きく三角に折った。しおり代わりにそうしたのであるが、私はなんとも言えない悲しい気持ちになった……という話を書いたこともある(2004年10月29日付「本の尊厳」)。
しかしながら、帯は私にとって本を売るための広告であり、間に挟まれている新刊案内のリーフレットと同じ「販促物」に過ぎなかった。
だから本を読んでいる最中に外れたり破れたりしたら、ためらいなく捨てていた。本の一部だなんて考えたことがなかったのだ。
そういう見方もあるのだなあ……と軽いショックを受けた。
本好きが高じて脱サラし、古本屋を開業した友人がいる。国民健康保険にも加入できないほど余裕のない暮らしをしているが、店は手放したくないとなんとか踏ん張っている。
「どうして新刊書店ではなく、古本屋になったのだろう」とずっと不思議でならなかったのだが、出久根さんの話を聞きながら彼女の気持ちがなんとなくわかったような気がした。