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2005年09月22日(木) 悪口の心得(後編)

※ 前編はこちら

ファッションを見ればその人のキャラクターがある程度読めるが、「どんな服を好んで着るか」以上に明確に彼、彼女の内面を反映するのが、「どんな人を好きになるか」だと思う。
ごまんといる異性の中から、自分の人生観、美意識、モラル、センスといったものを総動員してたったひとりを選びだすのである。そうして“選りすぐられた人”というのは------結婚相手であればなおのこと------彼、彼女の価値観のかたまりであると言ってもおおげさではないのではないだろうか。

だから私は、配偶者なり恋人なりを赤の他人の前でけなす人に出会うと、「この人は、その相手を選んだのはほかでもない自分自身なのだということをすっかり忘れているのだなあ」と思う。
でなければ、どうしてそんな恥ずかしい真似ができるだろう?
ブティックの棚に服はたくさん並んでいたはず。その中からその一着を選んだのは、百パーセント自分の意思だ。その選び抜いたものをこきおろすというのは、「そんなのを選んでしまった私は見る目のない人間です」と言うも同じ。自分で自分を馬鹿にすることなのだ。

二、三回洗濯しただけでほつれたり色落ちしたりして着られなくなってしまうような不良品------酒乱だとかギャンブル狂だとか浮気性だとか働かないだとか------も中にはあろうが、そういうのは特別だ。「なんか着心地悪いなあ」「ちっとも似合わないわ」と不満に思うことがあるとしたら、おそらくそのほとんどは相性の問題にすぎない。
自分にしっくりこないからといって、その服の品質が悪いわけでは決してない。世の中にはそれがよく似合う人もきっとおり、自分の場合はたまたま体型や雰囲気にマッチしなかった、というだけの話だろう。
購入時、長く着られるデザインかどうか吟味したのか。ちゃんと試着をして色味やサイズを確かめたのか。
「もちろんよ、店ではとっても素敵に思えたんだもん。なのにどういうわけか、家で着てみたらぜんぜんイメージが違ったのよ」
衝動買いでもないのにそういう事態になったのだとしたらアンラッキーな話だけれど、それでもやっぱり、店員のお世辞やフィッティングルームの嘘つき鏡を見抜けなかったのは自分の手抜かり。「組み合わせの失敗」の責任が服にだけあるかのようなもの言いは違うよなあと思う。

それに、「そもそも自分はどんな服でも着こなせるような抜群のスタイルをしているのか?」をちらっとでも考えたら、一方的にそれを出来そこないのように言うことはできないとわかるはず。それに気づかず、自分が選んだ誰かを貶める人を信用することができるだろうか。
既婚でありながら男性が野心を抱くとき、妻を悪者にして、寂しい思いをしているとか家に居場所がないといったことをアピールしたがるけれど、勘違いもいいところ。きちんと妻子を愛し、また愛されていることがこちらに伝わってくる「夫」のほうが、男性としてはるかに魅力的である。


「いったん選んだら、つべこべ文句を言うな」と言いたいのではない。
人はそんなに強くも賢くもないから、ケンカをすれば憎まれ口を叩きたくなるし、手ひどく振られれば恨み言のひとつも言いたくなる。そんなときのためにも友人がいる。

しかし、それはものすごくむずかしいことなのだということはわかっておかなくては、と思う。
夫婦間の事情、男と女の問題はどう話したところで他人に真相を伝えきることはできない。だから、相手を非難するようなことを言うと薄情な人間だと思われるリスクが高い。
たとえば、私は配偶者の悪口以上に親の悪口を聞くのが苦手である。友人の中に親を嫌って実家に寄りつかないのがいるが、彼女が父母を「あの人たち」と呼ぶのを聞くたび、かすかな不快を感じる。血がつながっているからといってうまくやっていけるとは限らない、一口に「親子」といってもいろいろあるのだ、とはわかっていても、どういう仕打ちを受けたらそんな感情を抱くに至るのかが想像できないため、「それでも家族じゃないか、育ててくれたことに対する感謝はどこへやった?」ともやもやした気分になる。
同様に、夫や妻と至ってうまくやっている人を悪口の聞き手に選んだら、親身になってもらえるどころか引かれてしまうかもしれない。

「それでもかまわないわ」という場合も、目の前の友人を困惑させる可能性があることは認識しておくべきだろう。
彼らは非常識な隣人や嫌みな上司、意地悪な舅姑についての愚痴には快く付き合い、全面的に味方になってくれるが、“身内”の悪口には同調しづらいものだ。


「どうしてわかってくれないんだろう。悲しくなっちゃうよ」
とこぼす元恋人に言う。
「でも、奥さんも同じこと思ってると思うな」

そうしたら、彼はものすごく不服そうな顔をした。