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2005年05月30日(月) いわゆる“日記”とweb日記

先日、小学生の頃から日記をつけているという女性からメールをいただいた。
その方は初めてネット上で公開されている日記を読んだとき、衝撃を受けたのだそうだ。そこにある文章は、自分が思っていた「日記とはこういうもの」とはまるで違っていたからだ。
「個人サイトが普及したことによって、“日記”というものが従来とは違ったものになってきつつあるなあ、と思うのは私だけでしょうか」



たとえば、「今日はだんなは飲んで帰ってくるから、私ひとりなのよね」というときの夕飯と、家族と一緒に食べるときのそれとでは、内容にずいぶん差が出るのではないだろうか。
自分ひとりならありあわせの材料で適当に作る。少々型崩れしたってもちろん気にしない。だって味に変わりはないもんね。冷蔵庫になにもなければ一食くらい抜いたっていいや、とさえ思う。
しかし、夫や子どもに食べさせるとなるとそうはいかない。あらかじめ献立を決め、スーパーに買い物に行き、おいしそうに見えるよう盛りつけにも気を遣う。
私はこれが、ノートにつける日記とweb日記のもっともわかりやすい違いだ、と思っている。
「材料を買いに行ってまで作るか」は「ネタを探してまで書くか」に、「料理の見映えにこだわるか」は「きちんとした文章を書こうとするか」に置き換えることができる。

が、両者にはもうひとつ大きな違いがある。
少し前に、「人はいろいろなものを抱えながら、しかし何食わぬ顔をして生きていくものなのだろう」という話を書いた(十一日付「何食わぬ顔をして」)。その中にこういう箇所がある。

先日、仲良しの日記書きさんにごはんでも食べに行こうよと声をかけたら、「実はちょっと心配事があって、それが落ち着いてからでもいいかなあ」と返ってきた。ちらっと話を聞いたら、それはさぞかし気がかりだろう、遊ぶ気分になんてならないよね、と思うような内容だったのだけれど、日記は滞ることなく、またいつもと変わらぬ明るい調子で書かれていた。
そう、人は体調が悪かろうと落ち込んでいようと、“元気に見える”日記はいくらでも書くことができる。不機嫌だったり、食欲をなくしたり、ため息をついたりしている人だけが「なにかあった」わけではないのだ。


ノートにつける日記にはないが、web日記にはあるもの。それは「抑制」だ。

作家のエッセイでは陰気な話にはお目にかからない。日々の暮らしの中で、私たちと同じ確率で夫婦ゲンカや失恋、肉親との死別といったことに遭遇しているであろうに、彼らは不満を露骨に表したり悲しみを切々と訴えたりするような文章は書かない。「自分のために書くのではない」がベースにあるからだろう。
そのとき置かれている状況や感情に左右されず、どんなときもふだんと変わらぬ文章を生み出す。さすがプロだなあ・・・と思う部分であるが、しかし私はweb日記の書き手にもそれに似たものを感じることがある。

あなたもひとりやふたり、「この人の毎日には楽しいことしか起こらないんだろうか」という錯覚を起こしそうになるくらい、毎回テンションが高く元気なテキストを提供してくれる書き手を思い浮かべることができるのではないだろうか(超大手と言われるサイトに多い気がする)。
そこまで陽性ではないけれど、私がブックマークしている日記も一定のテンションを保って書かれているものが多い。こんな嫌なことがあった、あんな不愉快な目に遭ったといった愚痴めいた口ぶりのテキストはほとんど読んだことがない。
しかし、それは彼らがトラブルもストレスもない生活を送るハッピーな人たちだからというわけではなく、取り上げる話題を選んだり、テキストに持ち込む感情をセーブしたりしているからである。

* * * * *

インターネットにまるで興味のない友人は、「見ず知らずの人の日記読んでなにが面白いん」と首を傾げる。
もしサイトにある文章がノートにつける日記の内容そのままだったら、誰も十秒と留まらないだろう。「あなたのストレス解消に付き合ってらんないわよ」と舌打ちしながらバックボタンを押すに違いない。繰り返し訪問したくなるのはそこに「読ませる」ための創意工夫が存在するからであり、そのひとつが「抑制」や「第三者的な視点」といったものではないだろうか、と思う。

「日記なんだから好きなように書けばいいのよ」とおっしゃる向きもあろう。うん、たしかにそうなのだ。
しかし、気分の浮き沈みの少ない日記は読み手に優しい。こちらを消耗させないから心安らかに読むことができる。私はそういうタイプが好みである。