2005年04月29日(金) |
真夜中の訪問者(後編) |
※ 前編はこちら。
時刻は午前零時。ドアを開けると、向かいの部屋に住んでいる者だと名乗る、しかし口をきいたことはおろか顔を見たこともない女性が立っており、さめざめと泣いている……。
私はまるでわけがわからない。が、わからないながらも、何か大変なことがあったんだわ、ととにかくなだめて話を聞く。
「突然ごめんなさい、でもどうしてもいまひとりでいられなくて……。わあああ」
恋人に別れると言われた、どうしたらいいのかわからない、ひとりでいたら何をするかわからなくて不安だから朝まで一緒にいてほしい、ということだった。
死んでしまいたいと思うくらいの失恋を経験したことがある人は世の中にいくらでもいる。それでも、多くの人は深夜に隣家のチャイムを押したりはしない。誰でもいいからそばにいて、と思っても、「他人にそんな迷惑はかけられない」「みっともない姿は見せたくない」という思いがブレーキをかけるものだ。
自制心というものを失っている彼女には怖さ、不気味さを感じた。言っていることが本当かどうかわからない、部屋に上がったとたんバスルームから男が飛び出してきて監禁されるんじゃないか、なんてことも頭をかすめた。
でも、もし話が本当だったら……?
つらくてつらくて、藁にもすがる思いで見ず知らずの私に助けを求めてきたのだとしたら。
「わかりました、行きます」
気がつくと、そう答えていた。
* * * * *
「おじゃましまあーす」
わざと明るくドアを開けた私は、もう少しでうわっ!と声をあげそうになった。ポスターサイズに引き伸ばされ、大きな額に入れられた男性の写真が玄関にドカーンと飾られていたのである。
「あの、これ……」
「うん、彼」
しかし、部屋はさらにすごかった。男性の写真が所狭しと飾られ、家具にはプリクラが隙間なく貼られている。
彼女はひたすら話しつづけた。それは、聞けば誰もが「あなた、金ヅルにされてるよ!」と言うであろうと思われる内容だった。
彼女もそれに気づいていないわけではない。しかしそこには愛があると信じており、「こんな生活はつらい。もう耐えられない」と声を震わせながらも、彼を失いたくないと涙を流す。
暴力や浮気を繰り返されても恋人や夫から離れられない女性がいるという話は聞いたことがある。彼女もそういう女性たちと通じる何かを持っているのだろうか……。
訪ねてきたとき、彼女が「振られる」でなく「捨てられる」という言葉を使った理由がわかったような気がした。
「ああしたほうがいい、私ならこうする」といったことは一切言わなかった。
彼女はアドバイスを聞きたくて私を部屋に呼んだわけではない。ただ話を聞いてもらいたかっただけなのだ。それに何を言ったところで、耳には入らなかっただろう。
空が白みかける頃、話すだけ話して彼女の涙がとりあえず乾いたことを見届けて、私は部屋を後にした。
彼女とはその後も廊下やロビーで顔を合わせることが何度かあった。
でも、どうしたのか、どうなったのかについては訊かなかった。あれからもドアのところにふたり分の店屋物の皿が出されているのをよく見かけた。きっと何も変わっていないのだろうと思っていたから。
そしてしばらくして私は実家に戻ることになり、マンションを出た。
それから三年ほどしたある日、梅田を歩いていたら彼女にばったり会った。
「元気でやってるん?」
「うん、あのときはほんとにありがとう」
「その人とはどうなったん?」
「あれからちょっとして別れた。いまはよかったと思ってる」
私はもうひとつ、疑問に思っていたことを訊いてみた。あの夜、どうして見ず知らずの私のところにやってきたのか。
「私は小町さんのこと、知ってたよ。何度かロビーで見かけたことあったから。いつも優しそうな彼と一緒で、なんとなくあの人なら話聞いてくれそうって思って……」
彼女とはそれきりだ。いま彼女の隣りにどんな男性がいるのかわからないけれど、幸せに暮らしてくれていたらいいな。
私の隣りにいるのはいまも、その“優しそうな彼”である。