過去ログ一覧前回次回


2005年03月16日(水) 書かれる側の気持ち(後編)

※ 前編はこちら

どうしてそういうことを考えたかというと、私もこの日記にいろいろな人を登場させるからだ。
家族を含め、実生活の知り合いでこのサイトのことを知っている人はいないから、「書かせてもらうわよ」と断ったことは一度もない。しかし、もし私との会話や思い出が文章になっていることを知ったら、彼女たちはどういう気持ちになるのだろうかと想像することはある。
「プライベートなラブレターを売った」北川悦吏子さんのように、私も過去の恋についてあれこれ書いてきた。彼らは「んなことしゃべるなよ」と怒るだろうか・・・がふと胸によぎることも。

「今日学校で○○ちゃんがねえ」
「うちの会社にこんな人がいるんだけどさー」
食卓を囲みながら家族に、電話で友人に。私たちは目の前にいない人のことを誰かに話して聞かせるということを当たり前に行っている。
これをしたことがない人はいないだろうし、ためらう人もまずいまい。その場にいない人について無断で第三者に話すことが後ろめたいことだとしたら、この世から「会話」というものが激減してしまう。一人称と二人称しか必要としない内容で、満足にコミュニケーションを取ることができるだろうか。
web日記を書く、読むという行為はこれの書き言葉版と言えるのではないか。

・・・とは思うものの、私が私に書かれる人たちに対し、かすかな気兼ねを感じているのも本当だ。
というのは、自分が“話しかける”相手が「不特定多数の人たち」だからである。家族や友人に話すのと見ず知らずの人に話すのとでは、必要性、必然性の点において同じとは言えない。
が、同時に正反対のことも考える。
「この先どこで結びつくともしれない生活圏の近い人に話されるより、まるで接点のない人に話されるほうがずっとましだろう」
この解釈もあながち都合のよいこじつけではない気がする。
このあたり、ほかの日記書きさんは自分の中でどう折り合いをつけているのだろう。

これについては守秘義務がある職業の人が書き手である場合は、話はぐっと深刻になる。
接客業や医療関係に従事している人、たとえばホテルマンや医者がその職業ならではの日記を書こうとするなら、客や患者を登場させないわけにはいかないだろう。とすれば、どこまでを許容範囲とするか。
ある程度具体性がなければ読み手に話が通じない。が、「これ、俺のことだろう!」「○○さんのことじゃないかしら・・・」となる可能性は排除しなくてはならない。
どこまでを可とし、どこからを不可とするか。この線引きを誤ると、読み手からモラルを疑われる。これはなかなか悩ましい問題なのではないだろうか。


で、私の「折り合い」はというと。
ひとつは、自分の身元を明かさないこと。
サイトに詳細なプロフィールを置いたり顔を出したりしないのは、私が誰かを知る人が出ればこれまでに登場願ってきた人たちまで特定されてしまいかねないからでもある。勝手に書かせてもらっている以上、そのような事態が起こらないようにする責任がある。
そしてもうひとつは、「テキストの中であなたがたをぞんざいに扱ったことは一度もない」と言えること。
批判的に書くことはあるが、悪口は書かない。その場にいない人のことを話すときに私たちが後ろめたさを感じるのは、悪口を言うときだけだ。話すのも書くのも同じだとするなら、日記にそれを書かないのも当然ということになる。

この二点を押さえることで、許してもらいたいなあ、もらえるんじゃないかなあ・・・と思っているのだけれど、甘いかな。