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2005年03月14日(月) 書かれる側の気持ち(前編)

風邪をこじらせ、気管支炎になってしまった。
咳が止まらず眠れないのもさることながら、喉がちぎれそうに痛いのがつらい。この十年のあいだに歯科以外の医者にかかったことがあったかしらん?というくらい頑丈な私であるが、今回は早々と観念して内科を訪ねた。

さて、その待ち時間に読んだのが週刊誌に連載中の中村うさぎさんのエッセイ。歌舞伎町のホストに入れ上げていた頃のことをテレビでしゃべったら(一年間で千五百万つぎ込んだらしい)、その彼が自宅に怒鳴り込んできたという内容だ。
その番組の中で、うさぎさんがどんな話をしたのかは書かれていなかったのでわからない。ホストの名を明かしたのか、暴露トークだったのか。が、いずれにせよテレビで自分の話をされたことにホストが怒り狂ったということに、私は非常に興味を持った。

というのも、私が以前から抱いていた「作家はエッセイに家族や友人、知人を当たり前のように登場させるが、その人たちとのやりとりを書くにあたり事前に承諾を得るのだろうか」という疑問とリンクしていると思ったからだ。
林真理子さんは学生時代の知り合いについてかなり皮肉な調子で書いたら訴えられそうになったというし、脚本家の北川悦吏子さんも「過去の恋人とのエピソードはすべてドラマの中で使った。彼らにはバッサリ切られる覚悟をしている」と言っている。よほどデリケートな話でないかぎり、「あれを書いてもいいかしら」などと相手にお伺いを立てることはないのだろう。第一、締め切りに追われる作家にそんな時間的ゆとりがあるとは思えない。
自身のモラルに則って無断で書いたり話したりしている、だからときにトラブルが起こるのではないだろうか。

しかし、書かれる側、つまり作家と関わりのある、もしくは過去にあった人たちは自分がそうしてときおりエッセイの“ネタ”にされることをどう感じているのだろう。
作家といまも親しい付き合いをしている人はそう悪いふうに書かれることはないだろうから、どうということもないかもしれない。しかし、たとえば一度対談したとかなにかのパーティーで一緒になったとかいう顔見知り程度の人たちは必ずしも好意的なニュアンスで書いてもらえるとはかぎらない。
実際、林さんは「本音を書きたいと思うなら、人と馴れ合わないこと」と明言している。むやみにしがらみを増やすと自分の首を締めることになる、ということだ。たしかに、ナンシー関さんが非常に社交的で芸能界に友人がたくさんいる人だったとはちょっと思えない。
ふと手に取った雑誌の目次にある作家の名を見つける。そういえばこの人とは少し前に会ったっけ、どれちょっと読んでみるかとエッセイのページを開いたら、
「(対談では)気の利いた受け答えが返って来ず、盛り上げるのに苦労した」
「(パーティーに)露出狂みたいなドレスを着て来ていた」
なんてことが書かれてあったとしたら。名は伏せられていても、そりゃあ気分が悪いに違いない。

しかしだからといって、「私のことを勝手に書かないでよ!」と文句を言うこともできまい。
○○さんと仕事で一緒になった、どこそこで偶然見かけたという経験は作家のものである。そのことを書こうが話そうが、とやかく言うことはできない。できるとしたら、この人が自分をネタにするときはしかるべき配慮がなされますように・・・と作家の良心に期待することくらいだ。
もしそこに不本意なことが書かれてあったとしても、事実がゆがめられていないかぎりは「とんだ人に出会っちゃった」とあきらめるしかないだろう。 (つづく