先日、友人と食事に行ったときのこと。時刻はまだ二十一時を少し回ったくらいだというのに、彼女が「じゃあそろそろ」と腰を浮かせた。
いつもは終電まで話し込む私たちである。えっ、もう?と驚いた顔をしたら、「うん、明日もあるしね」と言う。
「“明日”くらい私にだってあるわよ」
と返しながら、ひらめいた。
「あ、わかった!例の彼から電話がかかってくるんやろ、だから早く家に帰りたいんや」
が、われながら名推理だと思ったその説はにべもなく否定された。彼女は冷笑を浮かべてつづける。
「それにさ、もしそうだとしても自宅の電話になんかかかってこんよ。いまどき携帯も持ってないシーラカンスみたいな人、おらんやろ」
「あのー、つかぬことをお尋ねしますが、ひょっとしていま私のことバカにした?」
「バレた?」
携帯電話を持っていないことで不便を感じることはほとんどないが、こんなふうに携帯持ちにいじめられ、悔し涙にかきくれることはときどきある。
以前、こんなことがあった。同僚が結婚することになり、二次会の案内状をもらったのであるが、「当日は携帯を忘れずにご持参ください」と注意書きがある。不思議に思い幹事に尋ねたところ、出し物の中で使用するのだという。受け付け時に紙に携帯の番号を書いて箱の中に入れる。司会者がそれを引き、記されている番号をダイヤル、携帯が鳴り響いたあなたが当選者、という寸法だ。
な、なぬー。では携帯を持たぬ私は「素敵な賞品がドシドシ当たるクジ引き」に参加できないということではないか!
と憤慨したら。
「大丈夫。いまどき携帯持ってないのなんてあんたくらいのもん。会場がシーンとしたままだったら小町が当たったってことだから」
……く、くやしーい!(ハンカチを噛みながら)
読み手の方からこんなメールをいただいたことがある。
「『浮気をするか、しないかはチャンスの有無と理性の強靭さにかかっている』と書いておられましたが、小町さんが携帯を持たないのはあらかじめ“チャンス”の部分を封じておく意味があるのではないかと推測しております」
携帯を持っていないというのは人々にとって「家にテレビがない」に相当するくらい風変わり、かつ理由を想像しがたいことであるため、なんらかの主義主張があってのことに違いないと思わせてしまうようだ。
しかし、そう言われてまんざらでもなかった私。これから誰かに訊かれたら、そう答えることにしようかしらん。だって、
「携帯を持たない訳?うん、ほら、そういうの持ってよからぬことを考えるようになると困るじゃない?」
というほうが、
「私のことだから持ったところで、かけるときは公衆電話を探すだろうと思うのね。だったら受けるだけのために何千円も払うのはもったいない」
より断然色っぽい。
ああ、信じられない。ここまで書いて、話が予定とまるで違う方向に行っていることに気がついた。
次回、軌道修正します。