2005年01月14日(金) |
それが「縁」というもの(後編) |
※ 前編はこちら。
「有機栽培といえば、アムの食品やサプリメントも原料には化学肥料や農薬を一切使ってないんよ」
彼女がアムウェイの製品を愛用していることは知っていた。創立者がやはりベジタリアンだそうで、化粧品や洗剤は開発段階で動物実験をしていないという。「すべての動物に人間と同等の生きる権利がある」という考えを持つ彼女がそれに行き着いたのは自然なことである、と私は納得していた。
長野オリンピックを見に行ったとき、駅前に「日本アムウェイ」の巨大な看板があるのを見て、「へえ、この会社が公式スポンサーになれるのか」と思ったことを覚えている……と言ったら、私がそれにどういうイメージを持っているかお察しいただけるだろう。
しかし、「そこの製品を使っている」という話を聞くだけであるなら、それを顔色に表す必要はない。これまでもそうしてきたように、私は彼女の前でニュートラルであろうと努めた。
が、それがよくなかったのだろうか。
「時間、大丈夫やろ?うちでゆっくりお茶飲もうよ」
そう言われたとき、勧誘されるのでは、なんて考えはまるで浮かばなかった。彼女はあくまで「菜食主義を実践するのにアムウェイの製品が必要」という口ぶりだったから、私をどうこうするつもりはないだろうと思い込んでいたのだ。
しかし、ソファに腰掛けて十分と経たないうちに分厚い冊子を手渡された。見るからにお金持ちそうな人たちが海外の別荘でくつろいだり、着飾ってパーティーに出たり、芸能人を家に招いたりしている場面の写真がずらり。何者なのだろう?と思う間もなく、この人はお医者さんだとか、この夫婦は一年の半分を海外で過ごしている、といったことを彼女が説明しはじめた。
それは「ダイヤモンドDD」と呼ばれる、アムウェイ・ビジネスの成功者たちのアルバムだったのだ。
もしかして私はいま、「勧誘」というやつをされているのか?
私の動揺に気づいているのかいないのか、彼女はテーブルの上にアルミホイルを広げ、二種類の歯みがき剤を少しずつひねり出した。そして、「左が市販の歯みがきで、右がアムの。で、これをね」と言いながら、それぞれを指の腹で円を描くようにこすった。
「ねえ、見て。市販のはもともと真っ白やったのにグレーに色が変わったやろ。でもほら、アムのほうはきれいな水色のまま」
このグレーはアルミホイルの色である、市販の歯みがき剤に配合されている研磨剤は汚れだけでなく歯の表面まで削り取ってしまうが、アムウェイの製品は粒子が細かいためそうならない、と説明した。
そして、「伝えたいことがあるから近々時間をつくってほしい」と言った。
もう疑う余地はない。私は宗教に誘われたときと同じに、関わるつもりはないとはっきり言った。すると、私に負けないくらい強い口調で彼女も言った。
「アムにいい印象を持ってないんやね。けど、アムのことをどれだけ知ってる?」
「ほとんど知らない」
「だったら小町ちゃんは話を聞くべきやと思う。どうするかはそれから判断しても遅くないし、私としても先入観だけで断られるのは悲しい」
なにか、あるいは誰かについてよく知らないという自覚があり、「ほんとはそうじゃないのかもしれないけど」と思いながらもあるイメージを抱いたままでいる、ということは少なくない。
私にとって「アムウェイ」はそのひとつである。無知を克服した上で再評価するのがあるべき姿勢だ、という彼女の言い分は間違っていない。
しかし、自分の認識が実際と違っている可能性があることを知りながらもそれを確認したいと思わない、チャンスを用意されてもなおその気になれない……この「縁のなさ」もまた真である。
関わりあいになる事柄や人を選ばずにすむほど私たちの一生は長くない。言い換えれば、それが自分と対象物との適正な距離、ということではないだろうか。
たとえば、私は自分に関する「そうじゃないんだけどなあ」とつぶやきたくなるような発言や記述に出会っても、釈明しようなんてことは思わない。ありがたくないイメージを抱かれること、誤解されること、それがこの先も解かれぬままだとするならそのことも含めて、それが私とその人の「縁」なのだ。
が、心配することはない。
自分にとって本当に必要な事柄や人とは必ず出会えるし、なにがあろうと最後にはわかりあえる。人生はちゃんとそうなっている。
家まで送るという申し出を固辞し、近くの駅で降ろしてもらう。
「明日から台湾やろ、菜食の店多いから見ておいで。あっちのもどき料理はすごいよ、魚のうろことか鶏の皮のブツブツまで再現してるから。帰ったら、話聞かせてな」
笑顔で車を見送りながらも、なんだか空しい。今度もまたデモンストレーションのようなことをするつもりなの?
ああ、今年の冬ってこんなに寒かったっけ……。