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2004年10月25日(月) 携帯メール中毒

内館牧子さんのエッセイでこんな話を読んだ。
ある会議の席で、出席者のひとりがずっとうつむいたままなのに気づいた。まったく顔を上げることなく、発言することもなければ他人の意見を聞いているふうでもない。いぶかしく思っていたら、近くにいた人が注意した。
「○○さん、メールは後にしてください」
なんと、その人は会議中に机の下で携帯メールのやり取りをしていたのである。
また、こんなこともあった。内館さんの友人が見合いの世話を頼まれ、先方の女性とその母親に会うことになった。レストランに現れた娘さんは感じがよく、「これなら誰にでも紹介できる」と思った。
……のも束の間、席に着いて母親と話をはじめると、彼女はバッグから携帯を取り出し、メールを打ちはじめたではないか。内館さんの友人はあきれ果て、前言撤回したそうだ。

これらのシーンを私は容易に想像することができる。なんせ、乗務中に携帯メールを打っていると乗客に通報され、懲戒処分を受ける電車の運転士が何人も出るご時世なのだ。今朝の読売新聞には、「歩道のない道路をベビーカーを押す女性がうつむいて携帯の画面を見ながら歩いていた」という投書が載っていた。
十年前初めて香港に行ったとき、街のいたるところで携帯を耳に当てながら歩く人を見かけ、「外にいるときにまでなにをそう話すことがあるのだろう」「そんなに多忙な人たちなのか」と首を傾げたことを思い出す。
しかし、いま日本のどこででも目にする、電車で向かいのシートに腰掛けている人全員が同じポーズで携帯をいじくっているとか自転車に乗りながらメールを読んでいるといった光景は、不思議を通り越して異様というしかない。
現在私は携帯持たずであるが、四、五年前まではそれの恩恵に与るひとりだったので、メールの楽しさは理解しているつもりだ。しかし、それでもいい気分がしないのは、自分と一緒にいるときに友人がしばしばバッグから携帯を取り出し、メールの着信をチェックすることである。たいていは届いていないので、彼女たちが携帯をぱかっと開いて閉じるまで五秒とかからないのであるが、その都度私は萎える。
そんな調子であるから、私が化粧室から戻ってきたときに彼女たちが携帯を触っていないということはまずないが、私はいつも思う。
「自分が席に戻ってきたとき、もし私が文庫本を読んでいたら。たとえすぐにページを閉じたとしても、『なにもこんなときにまで読まなくても』と思わないだろうか」
週末、義妹がふた回り近く年上の恋人を連れて来阪した。兄である夫に彼を会わせたいということだった。
ホテルのロビーで対面したその男性は義妹から見せてもらっていた写真とはだいぶ印象が違ったが、話した感じはふつうの人だったので安心した。ただ、ひとつだけ気になったのは、彼が食事中に頻繁にポケットから携帯を取り出しては画面に見入っていたことだ。
テーブルの下でこっそり、ではあったのだが、目ざとい私はそういうことにすぐ気づいてしまう。ふだんならともかく、義兄になるかもしれない人と初めて会い、紹介されている場なのである。三時間読むのが遅れたら大変なことになるメールでも届く予定だったのだろうか。そのマイペースさには正直なところかなり驚いた。
一緒にいる人がかかってきた電話に出ても、場所が不適切でさえなければ私はどうとも思わない。ストローの袋で人形を作ったりしながら、話が終わるのをおとなしく待っている。
しかし、届いたメールにその場で返信しようとしたり、私が席に着いても親指を動かすのをやめない友人には、「親しき仲にも……えーと、ほら、なんだっけ」と無邪気に尋ねることにしている。
それとも、今度彼女が化粧室から戻ってきたら言ってみようかな。
「ごめんやけど、これ、キリのいいとこまで読ませて」

【あとがき】
化粧室から戻ってきたときに携帯をいじっているのはたいてい女性ですね。というより、私が席を外している間にメールを打っていた男性には会ったことがありません。友人関係であっても女同士だとナアナアになってしまいがちなそういうところが、男性の場合のほうがきちんとしているような気がします。
最近、大学の講義中に学生の私語がなくなったのは、みなが自覚を持ったから……ではなくて携帯で「会話する」ようになったから、という新聞記事を読んだことがあります。さもありなん。