「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれその不幸の趣を異にするものである」
というのはご存知、『アンナ・カレーニナ』のあまりにも有名な冒頭の一節であるが、新聞の人生相談欄を読んでいると、世の中には実に千差万別の悩みがあるのだということに気づかされる。
「隣人があいさつ回りに来ない」「息子と婚約者の相性を占うと凶と出た」といった、そんなことで悩むのかと首をひねりたくなるものがあると思えば、「夫が妹と不倫している」「高校生の長男が妹の部屋を覗く」といった、背筋が寒くなるものもあるが、なにに悩むかにはその人の性格や価値観が表れるのでとても興味深い。
私はいつもまず相談内容を読み、自分ならどう答えるかを考えてから、その答え合わせをするように回答者の意見を読むことにしている。
さて、先日はこんな悩みが紹介されていた。相談者は七十二歳の女性だ。
二十歳の頃に五回の逢瀬のあと別れた男性が病に倒れ入院したと、彼の奥さまから連絡がありました。病院に駆けつけ、席を外してくれた奥さまに感謝しながら五十年ぶりの握手をしました。 以来、会いたい気持ちを抑えることができず夢にも見ます。彼の家族のことを考えると波風は立てたくありませんが、どうしたらよいでしょうか。
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「え、この人七十過ぎてるんでしょ?」と目を丸くした方がおられるかもしれないが、驚くには値しない。讀賣新聞の「人生案内」を読むのを朝の日課にして一年になるが、老いらくの恋の悩みを何度目にしたか知れない。
「夫が十歳年下の女性と不倫、夜も眠れない(八十四歳・女性)」
「妻が夜の生活を拒むのでノイローゼになりそう(八十二歳・男性)」
といった相談を読むたび、私は深い感慨に包まれるのだ。「人は死ぬまで愛だの恋だのから解放されることはない」という事実。これに私は感動しながら、うんざりする。
「ああ、早くブスだのデブだの言われずにすむ年齢になりたい」と言ったのはダイエットに失敗してばかりの頃の林真理子さんだが、私は「年を取って恋心なんてものがなくなってしまえば、どんなに心安らかに生きられるだろう」と思ったことが何度かある。
しかし、どうやら私たちはヨボヨボのおじいちゃん、おばあちゃんになってもパートナーの浮気を警戒したり、満たされない性欲に悶々としたりしなければならないらしい。
さきほどの相談に話を戻そう。
回答者には弁護士や心療内科医、映画監督、大学教授などいろいろな職業の方がおり、相談内容によって担当が振り分けられるのだが、私は作家の出久根達郎さんの回答にしばしば胸を打たれる。この方の著書を読んだことはないけれど、いつも理性的で温かい人柄がにじみ出たようなアドバイスをなさるのだ。
「席を外してくれたこと、あなたが奥さまの立場で考えてみれば、好意の大きさがわかるでしょう。これ以上、相手の奥さまのご好意に甘えてはいけません。一度だから許されるのであって、相手の善意にすがって再度を願うのは潔くないふるまいです。恋人を思うなら、手紙で闘病を励ますことです。五十数年前の交際に花を添えるためにも、ぜひそうなさることをお勧めいたします」
常識的でどうということのない回答だと思われるだろうが、原文の行間からは相談者への思いやりとエールの気持ちが読み取れるのだ。とくに「あなたは恋人と握手を交わしました。これで十分です」の言葉には胸がすくような思いがした。
夢のまた夢だと思っていたことの一部が思いがけず叶うと、人は「もっと」を望んでしまうものだ。「これ以上を求めてはいけない。私はもう十分すぎるくらいのものをもらったじゃないか」と自分を押しとどめた切ない記憶は、私にもある。
喜寿の男性です。終戦直後に付き合っていた女性と半世紀ぶりに再会し、若い日の面影を残す彼女に『来年のこの日もまたお会いしましょう』と言ってしまいました。 しかし、妻を持つ私にこうした再会が許されるのだろうかと自問しています。若い人には何を悩んでいるのだと笑われるかもしれませんが、私は昔人間です。よきアドバイスを。
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半世紀ぶりの再会、これはロマンティックなことなんだろうか、それとも寝た子を起こされてつらい思いをするだけなんだろうか。
私だったら……と想像してみようとして、苦笑する。私にそういう心配は無用なのであった。消息を知るすべもなければ、彼の中で私が生きつづけている可能性もない。
来年のこの日もまた、かあ……。
「もう十分じゃないか」
小さく声に出してつぶやいてみた。