過去ログ一覧前回次回


2004年03月24日(水) 区別と差別

ネットニュースの記事一覧の中に「『坊っちゃん湯』を男女平等に」という見出しを見つけ、どきりとしたのは私だけではないのではないか。
「性差別だから名称を変更しろとか、『嬢ちゃん湯』も作れとか、まさかそんな話じゃないでしょうねえ」
あわてて読みに行くとなんのことはない、道後温泉本館は現在浴室数、広さとも男湯のほうが優遇されているが、男性客より女性客のほうが多い現状を踏まえて女湯のスペースを広げることになった、という内容であった。
なあんだ、営業上そうしたほうが都合がよいから改築することになった、というだけの話なのね。「男女平等に」なんて書くから、てっきりまた性差別だなんだといった議論が持ち上がったのかと思っちゃったワ。
小町さんの発想が飛躍しすぎなのよと言うなかれ。以前、「なんにでもかんにでも男女平等を唱えりゃいいってもんじゃない」と書いたときにこんなメールをいただいたことがある。
「うちの近所に『婦人センター』っていうのがあったんですが、何年か前に『女性センター』に名前が変わりました。そして去年からは『男女平等センター』になりました」
私が理解に苦しむような部分にこだわる人というのは、世の中にはたしかに存在するのである。

男女平等といえば、春場所の千秋楽に優勝力士に土俵上で知事賞を手渡したいという太田房江知事の要望を大相撲協会が「女人禁制」を理由に今年も退けたことについて、夜のニュース番組で特集していた。
その中で、「知事が土俵に上がることについてどう思うか」を梅田や難波で一般の人に質問している模様が流れた。
「伝統、伝統って、いまはそんな時代じゃないでしょう」
「職場にもどんどん女性が進出してきてますからね」
「女性が土俵に上がってなにが悪いんですか」
これには本当に驚いた。発言のあまりの幼稚さに、だ。
もちろんどんな意見を持つのも個人の自由である。しかし、恋愛について語るのではないのだ。「自分はこの分野に関しては門外漢である」という認識は持っておく必要があるのではないだろうか。
「無知の知」の自覚がまるでないまま発せられた言葉は、「思いつき」と変わらない、無責任で軽薄なものになりがちだ。上記の発言は「歌舞伎の女形は女がしたほうがいい。そのほうがきれいだから」と言うのと同じくらいとんちんかんな発想だ、と私は思う。
相撲が神事を起源とするスポーツであり、ゆえに角界は他に類を見ないほど伝統を重んじるきわめて特殊な世界なのだということを理解していれば、「たかが杯を手渡すだけなのになにが問題なんだ。そんなことで伝統は壊れない」なんて軽々しく口にできるはずがない。「知事が土俵に上がるのは反対」と答えたのが一般の人たちは35%だったのに対し、大阪府立体育館の観戦客の回答では64%に達したというのもむべなるかな。
昔のしきたりや様式が継承されて「伝統」となるのだから、現代の価値観に合うはずがないのはある意味当たり前のことなのだ。だからといって現代風にアレンジしなければならないなんてわけはない。
時代の流れで姿を変えていく伝統も中にはある。しかし、その判断を下すのはその世界に生きる人たちであって、私たちではない。

先日テレビの討論番組で、現在公立小学校の七割で男女混合名簿が採用されているという話を聞いた。
「男女を一緒くたにしてしまうことで先生方が不便に感じることがないのであれば、いいんじゃない」というのが私の感想だが、それは単に「そういうやり方もあるわね」という話であって、性差別うんぬんの観点からではない。
男子がいつも先に呼ばれていると、子どもたちの中に「男は女より偉いんだ」という認識が植えつけられてしまうのだと説明されても、そういうものなのかどうか、冗談でも皮肉でもなく私にはわからない。
名簿はともかくとしても、先生が生徒を呼ぶのに「君」「ちゃん」を使ってはならず、「さん」付けにしなくてはならないだとか、徒競走で男子と女子を一緒に走らせるだとかいった愚にはコメントする気も起こらない。
区別と差別の違いがわからない、あるいはそれ自体が存在しない人がいることには驚きあきれるばかりだ。

【あとがき】
なにも知らないのだから口を出すべきじゃない、なんて話ではないのです。門外漢は門外漢なりに考え、発言する権利はある(でないと、ごく限られたことにしか発言できなくなってしまう)。だけど、その際はやっぱり「無知の知」をあたまに置いた上で、が前提だと思うのです。それをわきまえた上での「女人禁制には反対」ならよいのですが、「そんな時代じゃない」とか「そんなことで伝統は壊れない」とかいうのはその世界に生きる人たちにものすごく失礼な言葉だと私は思いました。