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2004年03月21日(日) 「それは自信ですか?」と訊かれて。

先日、ある方からこんなメールが届いた。
「私はいつも不思議に、そして羨ましく思うのですが、小町さんの文章ってわりと断定的ですよね。そうできる理由はなんなんでしょう。自信ですか?テーマによっては相当数の批判の意見も来るのではないでしょうか」
なるほど、と思いながら読む。過去にも他の方から同じ意味のことを言われたことがあるから、もしかしたらいまこの文章を読みながら「そう、そう」と頷いた方もいらっしゃるかもしれない。
「自信ですか?」と訊かれて、「はい、自信です」とはなかなか答えにくいものであるが、日記を書くときのルールというか、心がけていることのひとつに「自信を持って書く」があるので、そういうことだと言えるかもしれない。
それは自分の考えが正しいとか普遍的なものだと思っているという意味ではない。私の目にそう映っている、と書くのに遠慮したり萎縮したりする必要もないだろうということ。私が私の身に起こったことや頭の中にあるものをアウトプットするのだから。
もともと、たとえば最近よく耳にする「〜してもらってもいいですか」のような持って回った言い方や曖昧な表現が好きでないこともあって、書き言葉でも言い切ることが多い。なにかに対して意見を述べるようなときはとくに、語尾に「〜と思う」はつけない。予防線を張りめぐらせながらなにを言っても説得力はないし、それが他者へのおもねりに見えたら読み手を興ざめさせてしまうだろう。
自信なげなもの言いと柔らかい口調はまったく別物だ。誰かの日記を読んでいて、主張系の内容なのに妙に遠慮がちだったり逃げ腰だったりすると、もったいないなあと思う。潔く書かれてあったら、もっと読み手を引きつけられるのに。「意見が違っていたら明日からもう来ない」という人ばかりではないのだから、と。
先日、日記の中でちょっとしたアンケートをしたところ、回答に名前を添えてくださった方がけっこういらした。中には親しい友人も何人かいて、必ずしも私と意見が一致していたわけではなかったけれど、だからどうということはありえない。異なる個体が異なる価値観を持っているのは当然のことである。
回答してくださったある方が「さまざまな意見があったことに逆に安心しました。この話題で同じ考えの人ばかりだったら怖いですもんね」とおっしゃったが、私も本当にそう思う。
自分と正反対の論であっても、堂々と展開されていると「敵ながらアッパレ!」となるものだ。思うところを述べるときは気後れなどせず、毅然としていたほうがぜったいに素敵だ。

そんなふうに思うのは、私の中に「いい人だと思われたい」「共感してもらいたい」「期待に応えよう」といった気持ちがかなり希薄だからかもしれない。
そりゃあ、「ヤな奴だぜ」と言われるよりは「小町さん好き」と言われたほうがうれしいし、「同感です」に安心することもある。しかし、「こんなこと書いたらどう思われるだろう」とか「敵つくっちゃうかな」なんてことは考えない。誰からも好かれようと思うから疲れるのだ。ふらりと立ち寄ったブティックに自分好みの服がなかったら客は踵を返すが、それを恐れて無難な品揃えをしても、これという魅力のない店にしかならない。私が店主なら万人受けを狙うのではなく、数は少なくてもいいから足繁く通ってくれるロイヤルカスタマーを掴むための店づくりをするだろう。
サイトにおける読み手と書き手の関係も同じことである。
言い切り型の文章、自己主張の強い文章は「きつい」「押し付けがましい」と感じる人も少なくないし、好きと嫌いがはっきり分かれる。穏やかで淡々とした文章に比べ、読み手の入れ替わりのサイクルが短いのではないかとも思う。
が、それは甘んじて受け入れるしかない。私はそういう文章しか書けないのだから。
努めるべきは、そのときそのときモニターの前にいてくれる人に恥ずかしくないものを提供することだけ。「嫌われまい」「飽きさせまい」の方向に心を砕くことではなく。
“自己満足”できることを目指す。そこのところを確保できれば、どんなメールが届いてもめげることはないだろう。

【あとがき】
ちなみに批判のメール、ご心配いただくほどは届きません。反対意見ならドサッと音が聞こえそうなくらいいただくことはあるけれど。考えを述べるタイプのテキストサイトはどこもそんなもんじゃないかな。