内館牧子さんのエッセイに、ある日の新聞の投書を読んでの話があった。
投稿者は三十五歳の主婦、銀行マンである夫の過労を心配する内容である。
行員一万人の都市銀行に勤めている夫は一日平均十四時間働き、サービス残業は月百時間以上。忙しくて昼食抜きになることも多く、毎日睡眠不足と戦っている。子どもが入院したときに半日休んだら、「そんなことで休むのか」と上司に言われたそうだ。 社内で健康キャンペーンをするなら、万歩計の数値を報告させるより昼食をきちんと取れるようにしてほしい。睡眠時間を削る持ち帰り残業を廃止してほしい。
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これを読んで内館さんが思ったのは、「妻が実名でこんな投稿をして大丈夫なのだろうか」ということだったという。
この夫は「出世も会社人生もどうでもいい」というタイプには見えない。これだけ過酷な労働環境にありながら転職も考えず働きまくっているということは、それらをあきらめたくない、もしくはまだあきらめていない人なのだと思う。この投稿は当然、社内の人間の目に触れるだろう。それによって夫がここまで培ってきたものが根こそぎ崩れ去るようなことにはならないだろうか、と。
まったく同意見である。私がまず気になったのは、夫は妻がこのような投稿をしたことを知っていたのだろうかということだ。
おそらく知らなかったのではないか。上司の言葉まで引き合いに出したこの文章は、愚痴というより非難のニュアンスが強い。もし夫が事前に目にしていたら、慌てて破り捨てたのではないかと思うのだ。
妻は会社に対して憤りを感じており、夫が過労死するのではと切羽詰まっていたのだろう。けれど、新聞の片隅で何を訴えたところで夫の処遇が改善されることはない。それなのに、皮肉なことにその小さな投書は夫のサラリーマンとしての将来を破壊する力は持っているのである。
彼女は自分の文章が上司の目に留まったとき、夫が被ることになるかもしれない不利益についてまでは考えなかったのではないだろうか。
内館さんは先述の投稿者の女性を「突っ走り妻」と表現したが、新聞の投書欄ではこういう危なっかしいというか、「それはひとりよがりなのでは」とこちらがハラハラしてしまうような女性に時々出会う。
先日、六十三歳の主婦が書いたこんな文章が目に留まった。
どうしているだろうとずっと気にかけていた、高校時代に仲の良かった男性の住所を知ることができたので、思いきって年賀状を出してみた。すると、私のことを覚えているといううれしい返事が届いた。 音信不通だったこの五十年のあいだの出来事を彼に伝えたくて、まずは「十八歳までの私」を便箋四枚にしたためた。次の手紙では社会人になってゆく私を伝えよう。 何回目の手紙でいまの年齢に到達できるかしら。きっと楽しんで読んでくれるに違いない。
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これを読み、多くの人は「微笑ましい話だな」と目を細めるのだと思う。これが掲載されていたのも「ほのぼのとしたちょっといい話」用の投書欄だった。
しかしながら、私は「これってどうなのかねえ……」と考えてしまった。
というのは、相手の男性にとって投稿者の女性から手紙が送られてくることは“歓迎”なのかどうかという部分を量りかねたから。年賀状が届いたときはきっとうれしかったに違いない。そんな女の子もいたなあと懐かしく思い出し、喜んで返事を出したことだろう。しかし、封がされた手紙となると話は違ってくるのではないか。通常、それには年賀状にはない重みや意味合いが込められているものだ。この男性にもおそらく妻子があるだろう。自宅に女性から手紙が届くようになったら、不都合はないのだろうか。
それにもうひとつ、十代の一時期仲が良かったというだけで恋人だったわけでもない、言わば“通りすがり”の女性の歴史を知りたいなんて思うだろうかという疑問もある。
インターネットをはじめたばかりの頃、私はうれしがって「この指とまれ!」という同窓会支援サイトに登録した。卒業した学校の名簿に名前を載せておくと、同級生や先生とネット上で再会できることがあるのだ。そうしたらしばらくして、中学時代に同じ部活だった男の子から「おひさしぶりです」とメールが届いた。しかし、ひと通り近況報告が済み、内容がたわいもない日常の話にシフトすると、私は次第にやりとりが負担になってきた。彼の現在にはそれほど興味がなかったからである。読むのも返事を書くのも手軽なメールでさえこうなのだから、もし手紙だったら億劫を通り越して迷惑にさえ感じたのではないかと思う。
投書の中の男性が投稿者の女性の話に楽しく相槌を打つことのできる人であればよいなとは思うが、ノスタルジーだけに由来するハイテンションはそう長く持つものではないような気がする。「同じ気持ちでいてくれているはず」という能天気な思い込みは相手を困惑させるだけでなく、結果的に自分をひどくみじめにする。男と女のあいだのことにおいては、とくに。
私がこんなふうに穿った目で見てしまうのは、ひとりよがりの思いというのがいかに哀れで滑稽か、身をもって知っているからだ。