村上春樹さんのエッセイの中に、胸がきゅっとなるこんな話があった。
打ち合わせの場に現れた女性を見て、あっと息を呑んだ。昔とても好きだった女の子にそっくりだったのだ。
目の前の彼女と記憶の中のガールフレンドは別の人間。これは幻想であり、ふとすれちがって消えてしまうべきものなのだ------それはよくわかっていた。なのに、別れ際彼女に言ってしまった。
「あなたは僕が昔知っていた女の子にそっくりなんです。本当にびっくりするくらい」
心のどこかにこのまま終わらせてしまいたくないという気持ちがあったのだ。
でも、言ったとたんに後悔した。彼女は美しい笑顔でこう答えた。
「男の方ってよくそういう言い方するのね。洒落た言い方だと思うけれど」
そうじゃないんだ、これは洒落た言い方なんかじゃない、僕は何も君を口説こうとしているわけじゃない、君は本当にあの子にそっくりだったんだよ、と僕は言いたかった。でも言わなかった。何を言っても所詮は無駄だろうなと僕は思った。
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その瞬間、村上さんは自分の中の何かが失われてしまったと感じたという。これまで大事に大事に守ってきた「彼女の記憶」がその短い会話によって一瞬にして消えてしまった、と。
そしてそのとき、自分の青春に幕が引かれたことをはっきりと認識した。三十のときのことだったそうだ。
あれを青春の終わりとみなすべきなのかはいまのところわからない。けれど、自分の中でたしかに何かが失われ、何かに終わりを告げたのだと悟った瞬間というのは私にもある。
二十代の前半、別れを告げられたあとも長いあいだ、私はその彼を思いつづけていた。本当に好きだったからであるのは言うまでもない。しかし、忘れようにも忘れられる環境ではなかったことも大きい。
新卒で入社した会社で、現場研修を終えた私が配属されたのは本社営業部。初出社の日、人事部の人にOJT上司となる先輩社員のところに連れて行かれた私は紹介された男性を見て、あっと声をあげた。
どうした運命のいたずらだろうと思った。目の前にいる男性は顔や体格、雰囲気まで心の中の彼にそっくりだった。
その人は呆然としている私を見ておかしそうに笑い、そして言った。
「よお、ひさしぶり」
それはひとつ年上の、彼の従兄だった。
その人には何度か会ったことがあった。つきあっていた彼の親戚であるというだけでなく、私を含めた三人は大学のゼミの先輩・後輩の間柄でもあったから。まったくの偶然で私がその人と同じ会社に入社することが決まったときも、ふたりで報告に行った。
だけど、まさか同じ部署で机を並べて仕事をすることになるなんて……。
私はその後、彼らが外見のみならず笑い方や口癖、書く文字まで似ていることを知ることになる。家が近所で兄弟のように育てられたと言っていたし、彼は「にいちゃん」に憧れてもいたから不思議はなかったけれど、私にはせつなくて、せつなくて。ことあるごとにその人の中に彼の面影を見つけては、胸のうずく日々を送っていた。
それでも、“日にち薬”とはよく言ったもので。何年かの時が流れ、私はようやく彼の記憶を上書きしてくれそうな恋にめぐり会うことができた。
そんなある日、仕事中にその人がふと思い出したように言った。
「あいつから聞いてる?」
彼とは別れてから連絡を取っていない。聞いてるってなにを?
そう訊き返そうとして、心臓がどきんと音を立てた。私の「その先は言わないで」は間に合わなかった。
「あいつ、結婚するねんてな」
彼とのことはすでに終わったことだ。長い長い時間がかかったけれど、私の中でもう決着のついたことだった。それなのに、全身から力が抜けていくのがわかった。
私ははじめて、「ああ、これで本当に、今度こそ本当に彼と終わるんだ」と思った。ここでふたりの糸は完全に……永遠に切れてしまうんだな、と。
その瞬間、私は自分の人生にひと区切りついたことをたしかに感じたのだ。
青春のはじまりはこうだった。
高校三年生の秋、ある視聴者参加番組を見ていた私は出場者のひとりが画面に映し出されたとき、雷に打たれたようなショックを受けた。そう、ひと目惚れというやつだ。
こういうとき、ファンレターを送ろうと考えるのがふつうなのかもしれない。しかし、私は「この人に会いに行こう」と思った。彼の大学と所属しているサークルはわかっている。ならば、この人の後輩になって正攻法で出会おう、と。
そして、私は推薦で決まっていた地元の大学を蹴って受験勉強を再開、翌春その大学の門の前に立った。
いま思えば、テレビの中に彼を見つけたあの瞬間に私のタイムウォッチは押されていたのだ。
ときどき、あの頃の自分を懐かしく思い出すことがある。
かつて母に「あんたはほんまにイノシシ年の子や」と言わしめた、こうと思ったら迷うことなく突き進むあの瞬発力、あの推進力はいまの私にはもうない。
それを思うとき、終わってしまったかどうかはともかくとして、「青春」という名の数値軸の真ん中付近にいないことだけはたしかだな、と思うのだ。