林真理子さんのエッセイの中にこんな話がでてきた。
魚屋で活きのいいイワシを見つけた林さん。脂ののったそれはいかにもおいしそうだし、中年サラリーマンである夫の健康にもいいに違いない。早速買って帰り、他の料理がすべて並んだときに焼きたてを出した。
しかし、おいしく食べてもらえるようにと心を砕いたにもかかわらず、夫はなかなかイワシの皿に箸をつけない。のんびり酢のものをつついていたかと思ったら、今度は刺身をつまみはじめた。林さんは次第にいらだってきた。
「イワシ、食べなさいよ」 「後で食べるよ」 「どうせなら焼きたてを食べたら、ほら、焼きたてでジュージューいってておいしそうよ」 「うるさいなァ」 夫はむっとした表情になる。 「どの料理から箸をつけようと僕の勝手だろ。君に指図される憶えはない」 私の頭の中で何かが炸裂し、テーブルをひっくり返したい衝動をおさえるのに苦労した。 (林真理子 『強運な女になる』所収「暮らす相手はシャツのようには選べない」)
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私は思わず「そう、そう、そうなのよっ」と叫んでいた。わが家の夫婦げんかの九割は「妻が怒り、夫がふてくされるか開き直る」の構図で成り立っているのだけれど、彼が私の怒りを買うのは食事どきであることが多い。なぜなら、食事を用意した者への気遣いというものがまるでないから。
リビングでパソコンをしている夫に「ごはんできたよ」と声をかけ、すぐに来てもらえることはまずない。よってこちらもそれを見越して、味噌汁を温め直しながら主菜を皿に盛りながら、少し早めのタイミングで呼びかけるのであるが、そのあたりは彼も心得たもの。「全部お皿並んだ?」「お箸も出てる?」などとモニタから視線を外すことなく言うのだ。
「あのさ、お茶くらい淹れてくれたっていいんじゃない?」
キッチンから言い返すが、やはり彼は準備が完璧に整うまで腰を上げようとはしない。私が席に着いてもまだぐずぐずしているときなどは、「何のためにお皿まで温めてると思ってるのよ」とかなりいらいらさせられる。
実は先日、虚しさが爆発した出来事があった。遅く帰宅した彼がひとりで夕食をとったときのこと。私は彼の話し相手をしながら隣室で洗濯物を畳んでいたのだけれど、食べ終えた食器を片づける段になって箸を出し忘れていたことに気がついた。
テーブルに箸が置かれていなければ、ふつうの人なら自分で食器棚から取り出してくるであろう。ふだんの夫であれば、「お箸がないよ」と私に声をかけるところだ。しかし、その日はなぜかその労さえ惜しんだ。なんとデザート用のフォークで間に合わせたのである。ごはんも、焼き魚も、煮物も、味噌汁も。
会社や公園で、女性が幼稚園児が持つような柄の太いフォークで弁当を食べている姿を見かけることがあるが、あまりおいしそうには見えない。実際、箸で食べたほうがぜったいにおいしいはず……と私は断言できる。
たとえば、ポテトチップスを食べながら本を読みたいと思ったとする。でも、油や塩で汚れた指でページを繰るのはイヤ。そんなとき、苦肉の策で私は皿にあけたそれを箸で食べることがあるのだけれど、不思議なことに指でつまんで食べたときとはおいしさが違うのである。
短いフォークでホッケをつつき、里芋を突き刺して食べたところで、まともにおいしさを感じられるわけがない。箸で食べたときのおいしさを十とするなら、彼が味わえたのは三か五か。それを作った者への「ありがとう」の気持ちが少しでもあるなら、そんな食べ方はぜったいにできないと思う。
怒りを通り越して大きな虚脱感。私はしばらく口がきけなかった。
たまには一緒にキッチンに立とうとか、妻が料理を作っているあいだにテーブルに皿を並べてよとか。あなたにそんなことは求めない。だけど、これだけは言わせてもらう。
林さんの言葉を借りて、今日の日記を締めくくろう。
「あなたね、自分は何ひとつしやしないんだから、せめて人のつくった料理をおいしい時に食べるぐらいのことをしたっていいでしょうッ、そのくらいしなさいよ」
【あとがき】 「ひとりで食べたときは食器を流しに運んでちょうだい」と何百回言おうとまるで習慣にならないのも、彼が洗う側のことなど考えたことがないからでしょう。なぜ流しに運べと言われるのか。そうか、水につけておくと汚れが取れやすいんだな、じゃあ協力してあげなくちゃ。そんな気遣いが欠片でもあれば、テーブルの上を食べっぱなしにしてリビングに戻るなどできるはずがない。こういうところで「ありがとう」の気持ちを持てない人は、他のどんなことに対しても持たない人だといえると思います。 |