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2002年05月13日(月) ふたつの後味

週末は夫と北海道へ。レンタカーで観光地めぐりをしたあと、苫小牧からフェリーに乗船。朝目を覚ませばそこは仙台、そこからは飛行機で帰ってきた。
さて、仙台空港内をお土産を探しながらうろうろしていたら、めずらしいものを見つけた。
手続きを済ませた人たちが搭乗を待つ出発エリアと誰でも立ち入ることのできる一般エリアはぶ厚いガラス張りの壁で仕切られているのだが、そのガラスをはさんだあちら側とこちら側とに電話機のようなものが設置されている。そう、旅立つ人と見送る人が出発の間際までガラス越しに話ができるように、という配慮である。
ラウンジでお茶を飲んだあと、搭乗口へ向かって歩いていくと、さきほどのガラスの前で若いカップルが別れを惜しんでいるのを発見。
見送るのは女の子。受話器を握りしめて人目もはばからずに泣いている。男の子のほうは周囲から丸見えなのが恥ずかしいのか、受話器は取らず、口パクで彼女をなだめている。ガラス越しに手と手を合わせたりしているのを見ると、こちらまで切ない気分になってくる。あまり見ないようにして通り過ぎる。
しかし、あんなふうにぐしゃぐしゃに泣ける彼女たちをちょっぴりうらやましく思ったり。私にはできなかったもんなあ。他人の目が気になるというのもある。でもそれ以上に、心配をかけるとわかっていながらあんなふうには泣けなかった。
でも、人生には分別や羞恥心といったものをかなぐり捨ててもいい瞬間がきっと何度かあるんだろうな。彼女を見ていたら、そう思った。

十代の少年少女がひとつのテーマについて意見交換をする、NHKの『真剣10代しゃべり場』という番組。
今回のテーマは十八才の男の子が提案した、「最近、ゴミの投げ捨てとか車内の携帯電話とか、他人に迷惑をかけて平気な人が増えていると思う。みんな自分のことばっかり考えていて、道徳心が薄れているんじゃないかな」であった。
その中で、
「俺は他人に『あいつはマナーが悪い』とか思われても、気にしない」
「目の前でゴミを捨てられたって、自分が被害を被るわけじゃなければ、べつになんとも思わない」
という意見が出てきたのには驚いた。あまりにも「本音」だったからだ。
売り言葉に買い言葉で口が過ぎた、という感じではない。本人もそれが賞賛されるものではないとわかっていながら、「けど、俺はそうだし」という気持ちで発言したのだろう。
この言い分を聞いて、私はある話を思い出した。ある雑誌で、「今のままの推移で出生率が下がり続ければ、日本人は七百年後に地球上からいなくなる」という記事を読んだ。朝のラジオでも「百年後に日本の人口はいまの半分、四百年後には二十七人になる」と似たようなことを言っていた。もちろんこれは計算上の話に過ぎないが、これを聞いたときに私の頭をかすめたのは、人口が減ることそのものに対する危惧ではない。
「子を持たない人間がどんどん増えていっても、少なくともいま程度の(暮らしやすさのある)社会というものは保ちつづけられるのだろうか」
という不安。日本に限った話でないならば、それは地球の寿命まで縮めることになりかねないのではとさえ思う。
具体的に「この子のために」と思いを馳せる対象がいる人と、自分と同じ時代を生きる人間との関わりしか持たない人とでは、未来の日本や地球の「無事」を祈る気持ちにおいてその切実さはやっぱり違うと思うからだ。
「ま、その頃、私は生きてないしな」になりはしないか。自分たちが生きている「いまこの時代」に焦点を合わせて物事を考えるようにはならないか。漠然とした人類愛というもので、人はどれだけ真剣に後世の人のことを思いやることができるだろう。
「親でない」すべての人がそうだとは言わない。が、アベレージを出したら、やっぱり「親たち」には敵わないだろうと思うのだ。
誰も千年先を想像することはできないけれど、親であれば、せめて孫子の代までは日本の平和と豊かさがつづいてほしいと祈るだろう。水と空気のきれいな、緑の残る地球であってほしいと願うだろう。
そういう「百年、二百年先のことなら考えられる人たち」が途切れることなく脈々と生き継いでいくことによって、結果としてさまざまな守るべきものが存続していくのではないか。私は人類が種を残そうとする本能を与えられたのは地球を生き長らえさせるためなのでは、とさえ思うのだ。
「自分に害が及ばなければ、他人が何をしようとどうとも思わない」を聞いてこの話を思い出したのは、「その頃、私は生きてないし」と本質が同じだから。どちらも、「自分」のところで思考が停止している。
空港の女の子の「人目をはばからない」と、番組中の男の子の「他人の目を気にしない」。一見似ているようだが、そのふたつが私に残した後味はまったく異なるものだった。

【あとがき】
あのガラスや電話機は、ある意味では残酷でもあるなと思ったり。見送りに来たほう、つまり置いて行かれるほうは恋人の姿が機内に完全に消えてしまう最後の最後まで、あのガラスにへばりついて泣きつづけなくてはならないから。まあ、それでも、一分一秒でも長く一緒にいたいんだけどね、たとえガラス越しではあっても。それが恋ってものなのよね。