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前日の『中田英寿という時代【1】』を読まれてない方は、まずはそちらからをお読みください。
4.「王様」から「闘将」へ
中田英寿は、明らかに子供だった。 1998年のフランスW杯からペルージャへ渡ってからの数年間、コミュニケーション能力という意味では、 中田は明らかに子供だった。この点は、今回の引退メッセージで自ら明らかにしている。
中田のような強い自我を持つ人間は、己から何かを発信することは得意でも、周りの環境と調整し合い、 協調していくことには長けてない。人間とはバランスがあるもので、一方が立てば一方は立たないもの。 外に表出する彼の鋭利な部分だけを稚拙なメディアが取り上げて報道する。マスコミは「王様」という言葉を、 皮肉混じりに彼の肩書きに好んで使っていた。内に秘める誠実さや優しさを外に伝えることは下手な故、 中田は殻に篭っていった。しかし、金子達仁氏や小松成美氏などの彼と親しいライターたちが、 彼の素顔について度々語ることで、彼の内面と外の世界との橋渡しが行われた。そうして周囲の努力により、 心ない中傷や誤解から中田英寿という若き才能が守り続けられるうちに、やがて彼自身にも変化が起きていく。 中田はサッカーを通じて、子供から大人へ変わっていったのだ。
ある時を境に、中田英寿を疑問視していたファンの見方が変わったと感じた事がある。 今思えばその分岐点は、トップ下からボランチへポジションがシフトしたあたりではないかと思っている。 どの試合かは忘れてしまったが、日本代表の親善試合で、中田が初めてボランチでスタメン出場した 試合がある。私が「中田の適職はボランチ!」と確信した試合だった。以前は疑問視されていた守備も、 海外経験を経て日本の本職より確実に上手かった。特に印象的だったのが誰よりも豊富だった運動量。 献身的にボールを奪って前線に供給する姿は、自分に合わせて周りが動いてくれたトップ下時代とは 全く逆の中田の姿だ。さらに、ポジションの位置や役割上、ゲーム中に全体がよく見えるようになったからか、 ピッチの監督として、チーム全体を叱咤する彼の姿を見るようになったのもこの時期からだ。
「俺の一本のパスで決めてやる」が、「俺がゲームを支えて誰かに決めさせる」というスタイルに変わった。 近年の中田は、以前のブラジル代表主将であり晩年はジュビロで活躍した「闘将」ドゥンガ選手のように見えた。
当然、年相応に自覚が出て来たというのもあるだろう。他にそういう役を担える人がいなかっただけ とも云える。しかし、コミュニケーションが下手な単なる「子供」だった中田が、周囲に守られながらも、 「王様」から「闘将」へと変化した要因は、司令塔からボランチへのシフトが影響していることは間違いない。
「クールな王様」から「燃える闘将」への覚醒?。 燃えるようなサッカーへの想い。サッカーを心から好きだという素直な気持ち。何が何でも勝ちたいという気持ち。 決して「覚醒」したのではない。それは、プロになってから封印せざるを得なかった「本性」であることを、 中田はHPのメッセージで赤裸々に告白していた。
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5.「中田時代」とは。
日本サッカーにとっての中田英寿の貢献は二つ。 「技術的な貢献」と、そして「外交的な貢献」があげられる。
彼は、日本サッカーが世界に追いつく為に必要な出来る限りのことを、自ら実践して身体で伝え続けてきた。 同時にCMなどの露出やネットを利用したセルフブランディングの徹底により、中田自身のみならず、 日本の全てのサッカー選手のブランド価値を向上させた。日本においてサッカーを一大産業に育てた功労者だ。 それは、後を追った選手の数を見れば一目瞭然だ。そしてもうすぐ、中田を見てサッカーを始めた世代が デビューし始める。ド素人の私が云わなくとも明白だが、彼は日本のレベルの引上げに確実に貢献した。
しかし、日本サッカー史上で中田が初めて成し得た貢献というのは、外交的貢献だ。海外へ渡った日本人選手は 中田以前に何人もいた。奥寺氏はドイツで活躍した。だが中田が海外へ渡るまで、欧州各国の一般市民の 日本サッカーに対する認識は、「日本にもサッカーがあるのか?!」などと云われるようなレベルだった。 向こうのサッカー世界地図にある日本には、何の色も塗られていない状態だったのだ。
それがどうだろう、中田が渡ってからはセリエAのお膝元のイタリアのみならず、他の欧州各国の市民にも 日本サッカーの存在が、ナカタとともに知られるようになった。そのきっかけとなったのは何と云っても、 ASローマ時代の優勝をかけたユベントスとの大一番だ。0−2と劣勢に立たされたローマを救ったのは、 中田の起死回生のロングシュートであり、モンテッラの同点弾も中田の強烈なミドルシュートのこぼれ球だ。 世界のサッカーファンならばこの試合はニュースで観たであろう。この一戦で一気に中田の名が知れ渡ったのだ。 (久々に観たい人はこちらへ→【ASローマvsユベントス】)
「日本?、ナカタなら知ってるよ。いい選手らしいね」世界からこんな風に云われるようになった。 長い間世界から置き去りにされてきた日本のサッカーファンにとっては、こんなに嬉しいことはない。
日本のマスコミに厳しかった中田だったが、海外のマスコミには丁寧に接した。その土地の言語を学んで、 その土地の言葉で話した事は、その土地のメディアに好感を与えた。しかしこれは単なる好感度の問題ではない。 日本にとってこの彼の振る舞いは何を意味するか。それは、中田がサッカー親善大使の役割を果たしたということだ。 彼がイタリア語で話す事により、日本サッカーと日本人について、市民レベルで正しく伝えられたはずである。 さらには、中田自身がしっかり身なりを整えて、紳士として振る舞ったことも日本にとっては大きい。 (中田自身は当然、日本への貢献を考えて振る舞っていたわけないが…笑)
中田の移籍以後少しの間、とかく日本人は「金ヅル」としか見られない時期もあったが、こうした彼の振る舞いは、 海外での日本選手の地位向上に絶大な貢献をした。それは引退発表の後の欧州メディアの反応を見ても明らかだ。 デルピエロが「電話で中田を説得したい」と云ったという報道には驚いた。過去の同僚でもないイタリアの選手が、 今や別の国のリーグにいて、活躍もパッとしない一人の日本人の引退に際して、電話で説得したいと云うなんて 想像できない話だ。皆さんは思わなかっただろうか?「彼が残した活躍の割には意外と反応が大きい」と。それこそ、 当初は「カネ」の魅力だけだった日本人選手が、一人のプロサッカー選手として本場に認められていた証ではないか。 こうした中田引退を惜しむ海外報道の中身こそ、中田が果たした日本への「外交的貢献」の現れだ。
中田がプロサッカーを始めてからの10年、彼が本当に目指していた目標は、 「日本サッカーの『実力』を世界に認めさせること」であった。 それには至らなかったものの、間違いなく「中田時代」の10年は、 「日本サッカーの『存在』を強く世界に知らしめた時代」であったはずだ。
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6.必ず帰って来てほしい。
「もう、ピッチの上に立つことはない」
中田はメッセージにこう書き記した。同じ男として潔い決断だと思う。彼の人生を我々ファンが 決める権利はない。これだけの仕事をしたわけだから、本当にゆっくりと休んでほしいと思うし、 彼自身が描く自分のライフプランに基づいて、新しい舞台での活躍を願うばかりである。
しかし、日本サッカーは間違いなく君を必要としている!本当は4年後にも選手として出場して欲しいが、 叶わぬ願いであれば選手でなくてもいい。監督としてコーチとして、地元の少年サッカーの監督としてでもいい。
とにかく、日本サッカー界にとって絶対に必要な人間だ。 必ず帰ってきてほしいと、我々日本国民は願っている!
060709 taichi
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